コンヴィヴァルな自転車

オーストリア出身の哲学者、社会評論家であるイヴァン・イリイチの著書『コンヴィヴィアリティのための道具』や『エネルギーと公正』には、自転車が繰り返し登場する。

イリイチがいう道具には、鍬や鋤のような器具や機械だけでなく、学校や病院といった制度も含まれる。彼は、人間の能力を拡張するはずの道具が、ある段階から人間を従属させるようになることを問題にした。そして、人間の自律性を保ちながら、その能力を拡張するコンヴィヴァルな道具のあり方を提唱した。その具体例として登場するのが自転車である。

コンヴィヴィアリティ(conviviality)は、日本語では「自立共生」と訳される。ここでいう自立とは、他者の助けを借りず、すべてを一人で行うことではない。イリイチはそれを「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由」と表現している。他者や環境との関係のなかで、自らの目的を定め、自らの力を創造的に用いること。そのような自由を支える道具のあり方が、彼の議論の中心にある。道具によって何がどれだけ生産されるかとともに、それを使う人間に、自分の行為を決める余地がどれだけ残されているかが問われるのである。

この関係を考えるうえで、イリイチが示したのが「二つの分水嶺」である。科学や技術の発展は、当初、人間が抱える具体的な問題を解決し、その能力を高める。しかし、その成功を根拠として制度が際限なく拡大すると、ある段階から、人間の活動を支えていたはずの道具が、その活動を妨げるようになる。学びを助ける学校が、学校の外で得られる知識や経験を低く評価し、人々を制度の与える資格に依存させるようになる。移動を容易にする交通機関が、歩いて暮らせる環境を失わせ、生活するために長距離の移動を必要とさせるようになる。第二の分水嶺を越えた道具は、自らが解決するはずだった問題を、かえって深めてしまう。

イリイチは、こうした支配のあり方を「根元的独占」と呼んだ。それは、一つの企業が市場を独占するという意味を越えて、ある種の商品やサービスが、人間の欲求を満たす方法そのものを独占する状態を指す。自動車を例にとれば、問題は特定のメーカーの支配にあるのではない。街の構造や生活圏が自動車を前提に組み替えられ、車を使わずに暮らすことが難しくなる点にある。自動車は遠くへ行く能力を与える一方で、自動車がなければ埋められない距離を生み出す。人々は便利な道具を自由に選んでいるつもりで、その道具を使い続けなければ生活できない条件のなかに置かれるのである。

だからこそ、イリイチが求めたのは、道具の規模や支配力に社会的な限界を設けることだった。彼は、産業的な生産のすべてを廃止することも、非効率な道具へと後退することも求めていない。人々が自らの目的のために技術を利用でき、その利用が他者の同等の自由を損なわないようにする。そのために、生産量や速度の増大を無条件に進歩とみなす価値観を問い直したのである。

『エネルギーと公正』では、この問題が交通と速度を通して具体的に論じられる。私たちは一般に、乗り物が速くなれば移動時間が減り、自由に使える時間が増えると考える。しかし、イリイチは、自動車のために費やす時間を、運転中の時間だけで測ることに疑問を投げかける。車の購入費や燃料代、保険料などを稼ぐための労働も、その移動を成立させるための時間である。当時のアメリカ人男性を例にした彼の試算では、年間約七五〇〇マイルの移動に、一六〇〇時間以上が費やされる。移動距離をその総時間で割れば、速度は時速五マイルにも満たない。これは、機械の速度と、人間が生活全体のなかで得る時間的な利益とが、同じものではないことを示す計算である。

さらに、高速化は社会のすべての人に同じ利益をもたらすわけではない。速い交通手段を利用できる人のために道路や都市空間が再編されれば、歩行者や自転車で移動する人は、迂回や危険を引き受けることになる。生活に必要な場所が遠くへ分散すれば、速く移動できるようになった分だけ、移動しなければならない距離も増える。イリイチにとって、交通における公正とは、単に全員が高速の乗り物に乗れるようになることではなく、自ら移動する能力を誰もが行使できる条件を保つことだった。

その具体例となるのが自転車である。イリイチは、自転車に乗った人間は歩行者の三倍から四倍の速度で移動でき、同じ距離を進むためのエネルギーは五分の一で済むと述べている。ペダルや車輪、ボールベアリングといった技術は、人間の身体が生み出す力を効率よく移動へと変換する。自転車もまた近代の工業技術の産物であり、その技術的な洗練が、人間自身の力で移動できる範囲を広げている。

しかも、自転車は行動範囲を広げながら、歩行との連続性を保つ。乗って進めない場所では、降りて押すことができる。自動車に比べて走行や駐車に必要な空間が小さく、高速交通ほど大規模な設備を要求しない。イリイチが評価したのは、このように、自分の移動能力を高めることが、他人の時間や空間を大量に奪うことに結びつきにくい点である。自転車は、使う人の自由を拡張しながら、同じ場所に暮らす人々が移動する余地も残す道具として位置づけられている。

ただし、彼が描いた交通のあり方には、自転車だけでは十分でない場面を支える動力も含まれている。長距離の旅行のための公共交通や、自らペダルを踏むことが難しい人のための補助モーターにも役割が認められている。問われるのは、動力が人間の自律的な移動を補助する範囲にとどまるか、それとも、人々の生活を動力への依存へと組み替えてしまうかである。自転車は、その境界を考えるための具体的な尺度として提示されている。

ここまで自転車について書いてきたが、そもそも僕がイリイチの著作を手に取ったのは、自転車について調べるためではなかった。コンヴィヴィアリティという概念に惹かれて読み始めたら、その具体例として、自分が日々乗り、作品制作にも使ってきた自転車が登場した。これはかなり嬉しい驚きだった。別の方向から考えていたことが、思いがけず自転車を通してつながったことに、運命的なものを感じた。

同時に、イリイチが権力や既得権益に向ける眼差しにも強く惹かれた。専門家や制度が、人々のためになるという名目で、その人々が自ら考え、行動する能力を奪っていく。彼は、そのような支配が進歩や豊かさの言葉で正当化されることを問い続けた。工業都市のワーキングクラスとして生まれ育った僕には、この姿勢がかなり響くところがあった。何を必要とするのか、どう働き、どう暮らすのか。その決定を、自分たちの生活から遠いところにいる誰かに委ねなければならないことへの反発を、彼の文章に重ねて読んでいたのだと思う。

そして、いまのAIをめぐる状況を考えると、イリイチの議論はますます切実に感じられる。生成AIによって、文章や画像、プログラムをつくることは身近になった。専門的な技術がなければ実現できなかったことに、一人で手を伸ばせるようになっている。僕自身もその恩恵を受けているし、制作の可能性が広がることには興奮する。

しかし、AIに何かをつくらせることと、それがどのように生み出されたのかを理解することの間には、隔たりがある。出力された文章の意味は読めても、なぜその答えに至ったのか、何を根拠にその情報が選ばれたのかを、内部の処理にまで遡って確かめることは難しい。AIが説明する「理由」も、実際の処理を忠実に示しているとは限らない。AI開発企業であるAnthropicも、モデル内部の仕組みには未解明な部分が多く、出力される説明と内部の処理が一致しない事例を報告している。

さらに、AIをサービスとして使うとき、利用者はその企業が用意した機能や契約、更新の方針のなかで活動することになる。自分の能力が拡張されたように感じる一方で、その能力を発揮できる条件は、自分の手元だけでは決められない。僕が気になるのは、この依存が仕事や生活の前提となり、使わないという選択が難しくなっていくことだ。AIを使えばできることが増える。その増えた能力を基準に、さらに多くの成果が求められるようになれば、便利さによって得たはずの余白は再び埋め尽くされてしまう。

イリイチのいう根元的独占は、この問題を考える手がかりになる。AI企業同士の競争があるとしても、社会全体がAIの利用を前提に組み替えられれば、AIに頼らずに学び、働き、表現する余地そのものが狭くなるかもしれない。ここで問題になるのは、どの企業のAIを使うかだけでなく、何のために使い、どこまで委ねるかを、自分たちで決められるかということだ。能力の拡張が、いつの間にか道具への従属へと変わる。その境界を考えるための言葉が、半世紀前のイリイチの著作にはある。

以前の記事「サイボーグになる」では、ハラウェイの議論を引き合いに、人間と機械がすでに絡み合っていること、そしてモバイルテクノロジーを伴う移動によって、その関係を結び直せるのではないかと書いた。イリイチを読んで、その問いに一つの判断軸が加わった気がしている。技術と結びついた僕たちが、自分の目的を持ち、他者とともに行動する自由を、どれだけ保てるのかという軸である。

自立共生を考えるためには、手元の道具と、それを使う自分の意志だけを見るわけにはいかない。どのような環境がその行為を可能にし、誰にはその機会が開かれ、誰には閉ざされているのかまで問う必要がある。自転車を所有していても、走れる道が危険であれば、移動の自由は限られてしまう。通信できる機器があっても、通信費を払えなかったり、利用に必要な知識を得られなかったりすれば、他者とつながる機会は同じようには開かれない。自立共生とは、依存をなくすことではなく、人々の自由を支える依存関係を、社会のなかでどうつくるかという問いでもあるのだと思う。

僕にとって、自転車とモバイルテクノロジーを使った制作は、その可能性を試す実践なのだと思う。自転車にプロジェクターを載せ、街に言葉を投影する。スマートフォンを介して、離れた場所にいる人々と時間や行為を共有する。道具が広げてくれた能力を、何に使うかは自分たちで考える。その行為を通して、他者や場所との関係をつくっていく。ただし、その実践も道路や通信網、他者と共有する空間に支えられている。自分たちの表現の自由と、その場所で暮らす人々の自由を、どう両立させるかも考え続けなければならない。

AIもまた、そうした実践を支える道具になりうる。わからないことを学び、試作を重ね、自分だけでは実現できなかった表現に近づくために使う。そのとき、自分が何をつくっているのかを確かめ、出力に異議を唱え、必要なら別の方法を選べる余地を残しておきたい。そして、その余地を保つことは、利用者個人の心構えだけでは難しい。仕組みを検証できること、別の道具へ移れること、使わない人も排除されないこと。道具を提供する側や、社会の側にも条件が必要になる。

コンヴィヴァルな道具としてモバイルテクノロジーを考えることは、AI時代に、どのような自由を手元に残しておきたいか、そしてその自由を互いに支える環境をどうつくるかを考えることでもある。自分の足で移動し、自分の感覚で場所に触れ、他者と何かを始める。その力を技術によって広げながら、自分たちの生き方まで明け渡さずにいるために、自転車という道具から、まだ考えられることがある気がしている。

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