インターネットの夏は、いつも静かで、どこか時間が止まっている。
例えばSNSのタイムラインに定期的に流れてくる夏を表象する画像や映像を思い浮かべてほしい。透き通るような青空、幾重にも重なる入道雲、ひぐらしの鳴き声、誰もいない海、遠くで上がる花火。それら「夏」を構成する記号は、インターネットという空間で極端に純化され、拡張され、私たちがかつて経験した現実の夏休みとは少し違う種類のノスタルジーとして日々消費されている。
なぜなら現実の夏は最高気温は平気で40度に迫り、一歩外に出れば命の危険すら感じる酷暑。憧憬の的である「田舎」は過疎化が進み、そこにあるのはシャッター商店街と老人たちの静かな生活だ。私たちがSNSや動画サイトで見て「エモい」とため息をつく夏は、今やディズニーランドの景観と同じくらい、精巧に作られた虚構を帯びている。
そんな「インターネット上の虚構の夏!」を演出する上で、欠かすことのできない重要な小道具がある。それが「自転車」である。
「エモさ」の象徴として自転車がどのように夏を彩っているのか。確認していこう。
ゆず「夏色」
「この長い長い下り坂を 君を自転車の後ろに乗せて ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく」
日本の夏を歌う楽曲の代表格である、ゆずの「夏色」のサビには自転車が登場する。該当部分に耳を傾けながら目を閉じると、インターネットで見かけた夏のビジュアルと相まって存在しない記憶が脳裏に浮かぶ。
現実の自転車という乗り物は、もっと無骨で容赦がない。真夏の炎天下、誰かを後ろに乗せて(現代では交通違反であるという野暮な指摘は置いておくとしても)長い下り坂を進むのは、実はかなりの恐怖と物理的な負荷を伴う。二人分の体重と下り坂の重力に引っ張られる車体を「ブレーキいっぱい握りしめてゆっくり下る」とき、そこにあるのは爽やかな青春の1ページというより、摩擦で悲鳴を上げるブレーキの軋みと、手が痙攣しそうになるほどの力み、そしてコントロールを失いかねないヒリヒリとした緊張感のはずだ。
しかし「夏色」の歌詞は、そうした自転車特有の生々しいノイズや、路上という空間が持つ危険性を完璧に漂白している。過酷な重力も、アスファルトの照り返しも、汗の不快感もすべて取り払われ、そこには「君」と過ごす永遠に続くかのような、ゆったりとした時間だけが抽出されている。
つまり、「夏色」に登場する自転車は、現実の路上を走るための移動手段ではなく、最初から「エモい夏」を走るためだけにチューニングされた舞台装置なのだ。私たちがこの曲に抱くノスタルジーは、かつて自分が実際にペダルを漕いだ体験に向けられたものではない。決して現実には存在し得ない、完璧に美化された「美しいフィクション」を、まるで自分自身の記憶であるかのように錯覚して消費しているだけなのである。
『ぼくのなつやすみ』

ゆずが歌い上げた「設計された虚構の夏」は、やがて別のメディアを通して、さらに純度の高いノスタルジーの装置へと進化していく。PlayStationのゲーム『ぼくのなつやすみ』シリーズにおける自転車もまた、極めて象徴的な小道具だ。
ゲーム内で自転車を手に入れると、主人公のボクくんは、徒歩ではたどり着けなかった隣町や、遠くの秘密の場所まで行動範囲を広げることができるようになる。しかし当然ながら、プレイヤーが体験するのは「コントローラーのスティックを倒す」という極度に抽象化された身体性だけだ。炎天下の砂利道でペダルを漕ぐ疲労感も、上り坂での息切れも、そこには一切存在しない。
そもそも、現実の田舎はもっと退屈で、虫が多く、閉鎖的で不便だ。しかし、ポリゴンとテクスチャで構築された安全な箱庭の中で、チリンチリンとベルを鳴らしながら入道雲に向かって自転車を走らせるとき、私たちはどうしようもない郷愁に駆られる。このゲームにおける自転車は、移動手段ではなく「存在しない記憶(=消費できるノスタルジー)を拡張するための魔法の鍵」なのだ。ソニー・コンピュータエンタテインメントが作り上げた完璧な虚構の夏を、私たちは自転車というインターフェースを通じて自分自身の原風景だと錯覚させられている。
『時をかける少女』

一方、細田守監督のアニメーション映画『時をかける少女』では、自転車はよりエモーショナルで、かつ残酷な「時間」そのもののメタファーとして立ち現れる。
最も印象的なのは、主人公の真琴が踏切に向かう下り坂を猛スピードで駆け下り、ブレーキが効かなくなるシーンだ。現実の酷暑のなか、ノーブレーキで坂を落下すれば、待っているのは血の匂いがする凄惨な事故という物理的現実である。しかし、アニメーションという虚構のレイヤーと、タイムリープというSF的想像力によって、その絶望的な物理法則は「時間を跳躍する」という奇跡へのトリガーへと鮮やかに反転する。
夕暮れのY字路や、未来から来た千昭との二人乗りのシーンで描かれる、光を反射して回転するスポーク。アニメーションならではの誇張されたパースペクティブで描かれる自転車の疾走感は、決して後戻りできない青春の焦燥感そのものだ。
Kurayamisaka「jitensha」
そして現在。インターネットが完全に日常と溶け合った2020年代において、「夏の自転車」という虚構のノスタルジーはどのように表現されているのか。その一つの回答が、2024年にリリースされたオルタナティブロックバンド Kurayamisakaの「jitensha」だ。
ポスト羊文学とも評され、現代のインディーシーンを席巻する彼らのサウンドは、90〜00年代のオルタナティヴ・ロックへの憧憬を感じさせる轟音のシューゲイザーである。何重にも重なるギターノイズと、憂いを帯びたボーカルによって紡がれる。この6分超えの楽曲は、まさに現代の「インターネットにしか存在しない夏」のサウンドトラックとして完璧に機能している。
「夏色」にあった汗ばむような身体性や、『時をかける少女』の劇的なアニメーション的疾走感とは違う。Kurayamisakaが鳴らす轟音は、例えるなら「ノイズキャンセリング」だ。
現実の夏は、命の危険を感じるほどの酷暑と、茹だるような湿気に支配されている。しかし、彼らの幾重にもエフェクトが掛けられたギターノイズは、そうした現実の過酷な熱気やノイズを遮断し、クーラーの効いた部屋でスマートフォンの画面越しに見つめる「純化されたエモい夏」の輪郭だけを美しく浮かび上がらせる。
「自転車で行くには少しだけ遠すぎるかな」
「瞬きよりも速い青が眩しくて何も見えない」
曲中で繰り返されるこのフレーズは、私たちが抱える決定的な喪失感を突いている。私たちがインターネット上で消費している「あの美しい夏」は、もはや現実のペダルをいくら漕いでも到達できないほど、遠い過去のもの(あるいは最初から存在しなかったもの)になってしまった。

今年も夏が来た。アスファルトの熱から逃れ、インターネットを彷徨い、二度と戻れない青さを見つめるための夏が来た。