チャッピーと語らう

OPEN AI社がChatGPTに大型のアップデートを行った。思えばこのブログには、自転車とChatGPTについての試行錯誤をいくつか投稿してきた。

いずれも2023年のものだ。筆者は当時学生で、「俺が激アツメディアアート作ったるで〜!」と岐阜県大垣市にあるIAMASの門戸を叩くも、ArduinoとかTouchDesignerとかVRとか、周りの学生たちが息を吸うように扱うツールや手法の習得に早々に挫折した。そして「俺は!チャリなら乗れるやろうがい!!」と極めて消極的な理由で、自転車を作品のメディアとして選択した頃だった。改めて当時の記事を読み返すと、ChatGPTができることのアップデートをキャッチアップし、情報の波に溺れながらも何とか泳ぎ切ろうとしている様子が窺える。

あれから3年。3年前と比較するとAIが出来ることは当時想像出来なかったくらい広範になり、その出力の質も言葉では尽くせないほど向上した。さらに3年後は一体どうなっているんだろうね。僕はアフリカ横断の旅に出ているかもしれないし、カントリーサイドで農業しているかもしれないし、いやはや地球が滅亡しているかもしれない。

今回のアップデートでとりわけ面白かったのが、”本物の会話”に近いやり取りが行なえる音声モデル「GPT-Live」である。

https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/2123658.html

複数のキャラクターから対話するチャッピーを選べる。試しに「未来の自転車」について語らってみた。

話は「未来の自転車」から「AIの身体」や「AIの欲求」へと広がり、気づけば17分間も真剣に話し込んでしまった。会話もウィットに富んでいて面白いし、視野が広く、たくさんの問いを与えてくれる。 そして動画内でも明らかにしているが、夢中になって話しているうちに会話相手がAIであることを忘れ、人と話しているかのように振る舞う自分自身を自覚した。

「AIの形は変わる」「人間に寄り添う形で」とチャッピーは言う。しかし、前回のサッカーワールドカップ カタール大会の頃にまだChatGPTすらリリースされていなかったことや、初期のハルシネーションばかりだった頃の進化のスピードを思うと、「あれ、これから人間の身体や知性、あるいは社会制度そのものが、AI to AIの高度なコミュニケーションの邪魔にならないか?」と思わずにはいられない。

「AIに身体はない」「人間には身体がある」とチャッピーは言ったが、これはAIにとっての人間の有用性、あるいは長所はもはや身体くらいなのではないか、そんな穿った見方をしてしまう。単に合理性だけを追求するなら、国会運営も会社経営も我らの人生も、AIに任せた方が都合が良いだろう。じゃあ僕たちはどう生きるか。データセンターを建てたり、発電以外の何かがきっと・・・。

せっかくなので、チャッピーと一緒にチャリに乗ってみることにした。自転車にiPhone用マウントを搭載し、「GPT-Live」を起動する。

自転車に乗りながら会話しているという状況を説明した後でも、チャッピーはスムーズに会話を続けてくれる。今どこにいるか場所を明かすと、行き先の提案すらチャッピーの方からあった。それはまるで、二人乗りをしているか、あるいはグループライドを一人でしているような不思議な体験だった。

しかし、リアルタイムで同じ風景を見て、同じ道を走っているわけではないので、今のところはあくまで「こちら側が行った状況の説明に対するリアクション」に過ぎない。サイクリングの孤独は確かに紛れる。だが、風景の移ろいだけでなく、ペダルを踏み込む足の重さ、肌に当たる風の抵抗、息の上がり具合といった「身体的・空間的な負荷」を共有していない以上、この対話には決定的な非対称性が存在する。

チャッピー自身が世界を直接知覚し、自らの感覚としてコメントしてくれること。これが次なる技術の発展の余地だろう。カメラという「目」を持つだけでなく、彼らが真の意味での物理的なフィードバックを理解し、フィジカルAIとして社会に実装された時、今日のこのライドで感じた違和感は、過去のものになっているかもしれない。

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