液状化する再帰的システムのなかで――有機化した総かり立て体制とモバイルテクノロジーの戦術(8000字版)

Anthropic社が提供するAIモデル「Claude」のFable 5が再公開された。

米政府が安全保障上の懸念から同モデルの輸出規制を指令した後、それが再びユーザーの手に渡るまでの過程で何があったのか、想像することはできない。だが、ひとまず今のうちに、溜まったタスクをAIとともに処理していくことにする。

以前の記事で、僕はAIへの対抗として「チャリに乗ること」を提案した。

しかし、このまま時代が進んでいくと、「チャリに乗ることくらい」しか人間の役割は残されていないのではないか。今、そんなことを考えている。

以下の8000文字のテキストは、この3ヶ月ほど僕が考えていることを、Fable 5が言語化したものである。

昨今のClaudeのAIモデルと対話をしていると人類の知的労働の大半が出力の正誤判断になっていく気がする。しかしその一方で、過去の歴史・データを背景とした知の哲人に挑み、切磋琢磨していくという、アツイ生き方も選択できる。俺は挑むが、みんなはどっち派?


1. 序――固体が溶け、そして装置が学びはじめた

ジグムント・バウマンが『リキッド・モダニティ』で描いたのは、あらゆる固体的なもの――制度、階級、共同体、終身雇用、国民国家的な帰属、そしてアイデンティティそのもの――が溶解し、流動化していく社会であった。マルクスとエンゲルスの「固体的なものはすべて空気のなかに溶ける」という句を引き継ぎながら、バウマンはしかし重要な転回を指摘する。初期近代の溶解は、より堅固な新しい固体(工場、官僚制、フォーディズム的秩序)を鋳造するための溶解であった。これに対し後期近代=液状化した近代の溶解は、再固体化を目指さない。溶けたものは溶けたまま、たえず形を変えつづける。重厚な資本は軽やかな資本となり、支配は「占領」から「離脱の脅し」へと様式を変える。パノプティコンの監視塔に監視者が常駐する必要はもはやない。権力は軽く、速く、遍在的で、そして何よりも「逃げ足が速い」。

バウマンは晩年、デイヴィッド・ライアンとの対話でこの診断を監視論へ延長し、「リキッド・サーヴェイランス」を語った。監視はもはや上からの一望ではなく、私たち自身が進んでデータを供出する参加型の様式をとる、と。だがバウマンの死後、事態はさらに一段階進んだように思われる。すなわち、権力の媒体そのものが「学習」しはじめたのである。

大規模言語モデルは人類の言語実践を再帰的に学習し、その出力がふたたびウェブに書き込まれて次の学習データとなる。スマートシティの交通システムは人流と渋滞のデータを取り込んで自らの信号制御を書き換え、レコメンデーションと監視のシステムは利用者の逸脱的な振る舞いさえも訓練データとして摂取して精度を上げる。通信網、都市、監視――これらのインフラはもはや設計図どおりに据え付けられた固定的な格子ではなく、環境との相互作用のなかで有機体のように自己成長するシステムとなった。液状化したのは社会だけではない。社会を捕捉する装置そのものが液体となり、私たちの動きに合わせて、私たちの動きを養分として、形を変えるのだ。本稿はこの事態を、ハイデガーとユク・ホイを介して「有機化した総かり立て体制」として概念化し、そのうえでミシェル・ド・セルトーの戦術論を批判的に更新しながら、自転車とiPhoneという二つの卑近なモバイルテクノロジーに、なお可能な日常的実践の戦術を探る試みである。

2. 総かり立て体制――ハイデガーの診断

ハイデガーは『技術への問い』(1953)において、技術の本質は技術的なものではない、と述べた。近代技術の本質は、個々の機械や装置にではなく、存在者全体が現れてくる仕方、すなわち開蔵(Entbergen)の一様式にある。ハイデガーはこれを「総かり立て体制(Ge-stell)」と名づけた。それは、あらゆる存在者を「用立て(Bestellen)」へと駆り立て、「常備在庫(Bestand)」――注文に応じていつでも取り出し、計算し、配送しうる資源――として立てて置くよう、人間を含む一切を挑発しつづける集約的な仕組みである。

有名な例を思い起こそう。ライン川に架かる古い木橋は、川をあるがままの川として、風景の一部として現れさせていた。だが水力発電所が建てられるとき、ライン川は電力供給のためのエネルギー貯蔵庫として、つまり常備在庫として現れる。ハイデガーの皮肉は鋭い――いまやライン川が風景として現れるのは、観光産業が「注文可能な景観」としてそれを用立てるときだけである、と。そして決定的なのは、人間もまたこの体制の外部に立てないという点である。森番は木材産業のために、患者は医療産業のために、私たちは「人的資源(Menschenmaterial)」「ユーザー」として用立てられる。総かり立て体制の最大の危険は、環境破壊や事故ではなく、この開蔵の一様式が唯一の様式となり、他の現れ方――物が物として、世界が世界として現れる可能性――が閉ざされてしまうことにある。

しかし、ここでひとつの限界も確認しておかねばならない。ハイデガーが目撃していた技術は、発電所、タービン、ラジオ、初期の計算機――つまりエネルギー変換と機械論的因果を基本とする技術であった。ハイデガーはサイバネティクスの台頭を哲学の終焉として名指しはしたが、その内在的論理を主題的に展開することはなかった。総かり立て体制の概念は、今日の再帰的・学習的システムを捉えるために、更新を必要としている。

3. 再帰性と偶然性――ユク・ホイによる更新

この更新を最も体系的に遂行しているのが、香港出身の技術哲学者ユク・ホイである。ホイは『再帰性と偶然性』(2019)において、近代哲学と技術史を貫くひとつの軸を取り出す。それは機械論(メカニズム)と有機体論(オーガニズム)の対抗である。カントが『判断力批判』で有機体を「自己組織化する存在」として機械から区別して以来、生命の哲学は、部品の直線的因果に還元されない全体性・目的論・自己産出を、機械論的世界像への抵抗の砦としてきた。

ところが二十世紀半ば、サイバネティクスがこの構図を根底から覆す。ウィーナーのフィードバック概念以降、機械は自らの出力を入力として回収し、環境の攪乱に応じて自己を調整する能力を獲得した。ホイの用語でいえば、機械は「再帰性(recursivity)」を実装したのである。再帰性とは単なる反復ではない。それは、ループの各周回において偶然性(contingency)――予期せぬ入力、ノイズ、誤差、逸脱――を取り込み、それを自己の構造化の契機へと転化する運動である。有機体が傷を治癒し、環境の変動を成長の糧とするように、再帰的機械は攪乱を排除すべき敵ではなく摂取すべき養分として扱う。かつて機械論への抵抗の砦であった有機体の論理は、いまやシステムの側に接収された。現代の機械学習はその最も先鋭な形態である。モデルは誤差(損失)を勾配として折り返し、自らの重みを書き換える。予測が外れることこそが、学習の駆動力なのだ。

この視座から総かり立て体制を捉え直すなら、現代のAI社会とは「有機化した総かり立て体制」と呼ぶべき事態である。変化は二重である。第一に、用立ての対象が拡張された。用立てられるのはもはや労働力や注意力だけではない。人間の偶然性そのもの――気まぐれな検索、深夜の徘徊、衝動的な購買、言い淀み、誤字、そして抵抗や逸脱までも――が、システムの自己成長のための常備在庫として先回り的に確保される。第二に、用立ての様式が変わった。固体的な総かり立て体制は規格化によって、つまり偶然性の排除によって世界を在庫化した。有機化した体制は逆に、偶然性の最大限の捕獲によって在庫を増殖させる。あなたが予測を裏切れば裏切るほど、システムはあなたについて賢くなる。ドゥルーズが「管理社会」論で予見した、閉鎖空間の規律から開放空間の連続的変調への移行は、この再帰的論理によって技術的基盤を与えられたと言ってよい。ここに、現代的な閉塞の核心がある。逸脱が体制を強化するとき、抵抗はいかにして可能か。

4. 戦術の黄金時代とその前提――セルトー再読

ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』(1980)は、まさに管理の網の目のなかでの抵抗の理論、「弱者の技」の理論であった。セルトーの独創は、消費・受容・使用という、生産中心の思考が受動性の側に振り分けてきた領域に、隠れた生産性=制作(ポイエーシス)を見出した点にある。

セルトーは「戦略」と「戦術」を区別する。戦略とは、固有の場所(propre)を所有する者の計算である。企業、軍、都市計画、科学制度は、自らの場所を確保し、そこから外部を対象として一望し、時間の不確実性を空間の管理へと翻訳する。対して戦術とは、固有の場所を持たない者の技である。戦術は他者の場所のただなかで、他者の規則の網の目のうちで遂行される。それは陣地を保持できず、獲得物を蓄積できず、ただ機会(カイロス)を捉えて一撃し、去る。狩場を持たない狩人の密猟(ブラコナージュ)。セルトーが挙げる範例は今なお鮮やかだ。労働者が就業時間と工場の機材を流用して自分のための工作品をつくる「ラ・ペリュック」。読者がテクストの上を遊牧し、著者の意図とは別の意味を密猟していく「読書」。そして何より、都市計画が敷いた格子を、近道と回り道と寄り道によってたえず書き換えていく「歩行の言表行為」。世界貿易センタービルの頂上から見下ろす一望監視的な「概念都市」に対して、地上の歩行者たちは読み取り不能な無数の物語を書きつづける――セルトーはそこに、権力の文法の内部で行使される、名もなき者たちの詩学を見た。

だが、ここで立ち止まらねばならない。セルトーの戦術論は、暗黙のうちにひとつの技術的前提の上に成り立っていた。戦略の格子が固体的で、鈍重で、更新が遅く、それゆえ逸脱を見落とすという前提である。一望監視の眺めが地上の詭計を捉えきれないこと、工場の管理が機材の流用を検出できないこと、都市計画が歩行者の実践を記録できないこと――戦術の余地とは、要するに戦略の解像度と更新速度の限界のことであった。セルトーが対峙していたのは、いわば固体的な総かり立て体制だったのである。

5. 戦術の危機――密猟者ごと森を呑み込む液体

ところが有機化した総かり立て体制は、まさにこの余地を食べて育つ。事例は列挙に困らない。歩行者の近道はスマートフォンのGPSログとして回収され、地図アプリの次のルート最適化に組み込まれる。かつて都市への異議申し立てであったストリートアートは、撮影されハッシュタグを付されて拡散した瞬間、地区のジェントリフィケーションを駆動する記号資本に転化する。プラットフォームの想定外の流用――ハッシュタグの転用、ミームによる批評、皮肉なリミックス――は、エンゲージメント指標としてはすべて等価であり、広告在庫の価値を高める無償労働として計上される。ラ・ペリュックはデータ労働となった。さらに検閲や監視への対抗技術でさえ、システムの敵対的学習の教師データとなり、次世代の検出器を鍛える。逸脱は見逃されるのではない。歓迎され、摂取され、換金されるのだ。

この事態をセルトーの語彙で言い直せばこうなる。戦術と戦略の非対称は、場所の有無から時間の位相へと移動した。かつて弱者の武器であった機動性と速度は、いまや液状の権力の属性である。資本は労働者より速く逃げ、アルゴリズムは使用者より速く更新される。戦術の一撃が着地する頃には、地面のほうが動いている。バウマンの言う液状性とは、戦術に対する戦略のこの位相的先回りにほかならない。では、戦術は死んだのか。私はそうは考えない。ただし戦術は、その形式を再考されねばならない。鍵となるのは、再帰の回路にとっての二種類の外部――「データにならないもの」と「回収より速い/遅いリズム」――である。

6. 自転車とiPhone――再帰の網の目のなかの二つの戦術

ここで、二つの卑近なモバイルテクノロジーを対置してみたい。自転車とiPhoneである。両者はいずれも個人の身体に随伴する移動の技術だが、再帰的システムに対する位置取りが対照的である。

自転車は、いわば非再帰的モビリティの残余である。それはデフォルトではデータを発しない(発するとすれば、それは使用者がアプリを起動するという選択の結果である)。配車アルゴリズムにもダイナミックプライシングにも包摂されず、燃料という常備在庫に依存せず、身体のリズムという計算不可能な偶然性によって駆動される。自転車で都市を走ることは、経路推薦の最適化の外部で、セルトー的な「歩行の言表行為」を高速化して反復することだ。信号の間隙を縫う判断、裏路地の選択、坂を避ける迂回、気分による寄り道――これらの微細な決定の連鎖は、システムにとって読み取り不能な軌跡として、いわば都市に書かれては消える暗号文として残る。しかも自転車の速度は絶妙である。徒歩より広い行動圏を与えながら、自動車と違ってナンバープレートによる登録=可読化を(多くの法域で)免れている。ジェームズ・スコットの語彙を借りれば、自転車は国家とプラットフォームの「可読性(legibility)」の網の目における、制度化された盲点なのである。それは有機化した総かり立て体制のなかに「用立てられないもの」の小さな領土を、走行のたびに一時的に切り開く。

一方iPhoneは、はるかに両義的である。それは疑いなく捕捉装置の末端であり、センサーの束であり、偶然性の在庫化の入口である。位置情報、加速度、購買、発話、視線の滞留時間――iPhoneは持ち主の生を、切れ目なく用立て可能なデータへと翻訳しつづける。だが忘れてはならないのは、セルトーの戦術がまさに「敵の場所のただなかで」行使される技だったことである。戦術の道具は敵から借りるほかない。だとすればiPhoneは、回避の対象である以前に、密猟の猟具でありうる。機内モードは現代の斎戒であり、再帰の回路を切断して不可視の時間を確保する技法である。エンドツーエンド暗号化されたメッセージは、通信網という他者の場所に、読まれない小部屋を仮設する。オフライン地図は、位置を供出せずに経路を得る片利的な使用である。トラッキング拒否の設定変更、複数アカウントによるプロファイルの攪乱、意図的なノイズ(無関係な検索)の注入は、自己のデータ像=常備在庫としての分身を汚損し、予測精度を下げる小さなサボタージュだ。重要なのは、iPhoneを「使わない」という純粋主義ではなく、それが設計した使用の流れ――エンゲージメントの最大化、データの円滑な供出――に逆らって「使いこなす」ことである。セルトーが消費を制作へ反転させたように、端末を供犠の祭壇から道具へと、その都度奪還すること。

ただし、幻想は禁物である。個人の離脱や攪乱は、集計のレベルではしばしば誤差の範囲に吸収され、時に新たな訓練データとして回収さえされる。オプトアウトはメニューに載った瞬間、体制の正当化装置(「選択肢は与えられている」)になる。だからこそ戦術は、単発の回避としてではなく、リズムの奪還として構想されるべきだ。再帰的システムには固有の周期がある――ログの収集、モデルの再学習、アップデートの配信。戦術の側もまた固有の時間性を持ちうる。自転車の速度がつくる身体の時間、機内モードが区切る不可視の時間、対面の会話や紙のノートが担う非同期の時間。これらの実践において、偶然性はデータとして摂取される前に、経験として汲み尽くされる。回収よりも速く過ぎ去るか、回収するに値しないほど遅く沈黙するか。戦術とは、システムの再帰周期に対する時間的なずらしの技法である。

7. 結語――戦術から技術多様性へ、あるいは複数の泳法

最後に、こうしたミクロな戦術を、ホイのもうひとつの概念に接続して締めくくりたい。ホイは『中国における技術への問い』以来、技術は普遍的な一本道ではないと論じてきた。あらゆる技術は、それぞれの宇宙論と道徳的秩序を統合した「宇宙技芸(コスモテクニクス)」として複数的に存在してきたのであり、近代の悲劇は、この複数性が単一の技術文化(モノテクノロジー)――まさに総かり立て体制のグローバルな貫徹――へと収斂させられた点にある。したがってホイの処方箋は、技術の拒否でも加速でもなく、「技術多様性(テクノダイバーシティ)」の再発明である。

この視座に立つなら、自転車やiPhoneをめぐる個人の戦術は、たんなる防衛的な悪あがき以上のものとして現れる。それらは、テクノロジーとの別様の関係――データ化されない移動、接続を選び直す通信、供出なき道具使用――を日常のなかで試作する、ミクロな宇宙技芸の萌芽である。セルトーが消費者たちの無名の詭計に「もうひとつの生産」を見たように、私たちは使用者たちの手つきのうちに「もうひとつの技術」の種子を見ることができる。もちろん、個の戦術と技術の複数性とのあいだには飛躍がある。戦術は蓄積しないというのがセルトーの定義であった以上、戦術だけで別の体制を建てることはできない。だがハイデガーがヘルダーリンを引いて語ったように、「危険のあるところ、救うものもまた育つ」。救いが体制の外部の無垢な自然にではなく、危険の最深部――つまり総かり立て体制そのものとの関わりの内側――にしか育たないのだとすれば、ペダルを漕ぎ、電源を切り、経路を外れ、設定を書き換える無数の名もなき手つきこそが、その苗床である。

液状化した社会において、固体的な砦を再建することはもはやできない。バウマンの診断は、その点で撤回を許さない。だが液体のなかでの生は、溺れることと同義ではない。求められているのは、単一の正しい泳法ではなく、複数の泳法を――それぞれの身体、それぞれの水域、それぞれの宇宙論に応じて――発明しつづけることである。戦術とは、その発明の別名にほかならない。

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