岐阜県で暮らしていた頃、ぼーっとチャリに乗って知らない道を走っていた時に、誤ってバイパスに侵入してしまって肝を冷やしたことがある。引き返すと逆走なので、凄いスピードで走る鉄の塊のスレスレをゆっくり自転車で走る。生きた心地がしなかったし、無事にバイパスを抜けれた時は心底ホッとした。
あの時感じたのは、単なる事故への恐怖だけではない。「ここは、自分の居場所ではない」という強烈な空間的拒絶だった。
世の中には、自転車が立ち入れない場所が驚くほど多い。高速道路、駅のホーム、ショッピングモールの遊歩道。徒歩とも自動車とも違う、中途半端な速度を持つ自転車は、都市の緻密なルールによって常にその立ち位置を規定されている。ルールは交通の秩序を守るものであると同時に、自転車のたちの移動を「線」の中に閉じ込める。
自転車が排除される場所の多くは、マルク・オジェが提唱した「非-場所(Non-lieux)」そのものだ。
マルク・オジェは、著書『非-場所―スーパーモダニティの人類学への導入』において、場所をこう定義した。
「場所とは、アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるものであると定義できるならば、アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるとも定義することのできない空間が、非-場所ということになるだろう。」
『非-場所―スーパーモダニティの人類学への導入』P104
オジェが著書の中で非-場所の例として挙げるのは空港、大型ショッピングセンター。そこにはその土地固有の歴史も、人間同士の深い交流もない。あるのは「通行人」や「消費者」という記号化された役割だけだ。
自転車でバイパスに迷い込んだ時、僕が感じた疎外感の正体はこれだ。非-場所は、特定のアイデンティティ(バイパスの場合は「自動車の運転手」)のみを通過させるように設計されている。オジェが述べるように、そこには「事前もしくは事後のアイデンティティ検査」(P131)が存在し、無害なもの(ルールに適合したもの)しか受け入れられない。自転車という、あまりに人間的なスケールの移動手段は、非-場所の効率性と匿名性にとって「ノイズ」でしかないのだ。
なぜ、こうした「非-場所」が増殖しているのか。それは僕たちが「スーパーモダニティ(超近代)」という時代を生きているからだ。
オジェによれば、スーパーモダニティの特徴は「交通機関の目をみはるような高速化」と「情報の増大」にある(P52)。世界が一体化し、人やモノが加速して循環するために、都市は「非-場所」で埋め尽くされていく。
『非-場所』とは、人や財を加速して循環させるための設備(高速交通、立体交差、空港)でもあるし、交通手段そのものでもあるし、あるいは巨大商業センター……でもある。
『非-場所―スーパーモダニティの人類学への導入』P52
自転車は、自分の足の延長線上で世界を捉える。しかし、スーパーモダニティが求めるのは、身体感覚を切り離した「効率的な移動」だ。バイパスの鉄の塊たちは、風景を見るのではなく、目的地という「点」だけを目指している。
この状況を、社会学者ジグムント・バウマンが提唱した「リキッド・モダニティ(液状近代)」という視点から見ると、さらに興味深い。
かつての社会(ソリッド・モダニティ)が、固定された地域共同体や場所に基づいていたのに対し、現代はあらゆるものが流動的で、形を留めない「液状」の変化を続けている。
一見、自転車はこの流動的な社会において、どこへでも行ける柔軟なツールのように思える。しかし、現実は逆だ。空間が効率化され、液状化すればするほど、そこには「目に見えない壁」が構築される。


リキッドな世界をスムーズに流れるためには、僕たちはあらかじめ決められたルートの中を通らなければならない。自由であるはずの移動が、実は最も細かなルールに縛られているというパラドックスが存在している。
自転車で行けない場所が多いということは、それだけ世界が「効率的な非場所」に占拠されている証拠でもある。 自転車に乗ることは、記号化された移動の中に、もう一度「場所」としての手触りを取り戻すための、ささやかな抵抗なのかもしれない。