鉄道としての役割を終えた高架線路の新たな利活用、という考え方そのものを代名詞化している存在と言っても差し支えがなさそうなのが、ニューヨークのハイラインである。かつては貨物鉄道が走っていた線路が廃線となり、公園に転用されるまでの間は廃墟のようになっていたという。
ニューヨーク・ハイラインは鉄道高架の再開発事例として有名だが、フランス・パリには高架橋の上を緑地公園とした最初の事例がある。郊外鉄道の廃線跡につくられた、プロムナード・プランテである。ニューヨーク・ハイラインも参考にしたという、パリのプロムナード・プランテの魅力について、日本の東京を引き合いに出して以下のように比較されている。
日本の大都市、東京においても最近、目黒線が地下化したが、プロムナード・プランテのような歩道がつくられることはなかった。また、小田急線も一部地下化したが、その上部空間においても、一部の住民はそのような提案をしているが、実際は住宅や商業施設などが計画されており、おそらく緑の回廊ではないものがつくられそうだ。プロムナード・プランテは一切、商業的活動がされておらず、カフェも花屋もニューススタンドもない。この点ではニューヨークのハイラインとも異なるが、歩行者が散策するという機能に特化したこの公共空間の気持ちよさは格別である。
都市の鍼治療データベース プロムナード・プランテ https://hilife.or.jp/cities/data.php?jirei_id=136
日本の都市における高架鉄道で、都市部で運用されている区間は概ね現在も現役の線路である。関西圏の都市、とくに大阪・京都・神戸の三都市を結ぶ路線は多くの区間で高架化されている。その中で、JR西日本の神戸線はどちらかといえば頻繁に運行の遅延が発生し、多大な乗客に日々溜息をつかれているのだが、多大な乗客輸送量も多く、近い未来にそうそう廃線になるようなことは考えにくい。高架の上が緑地になることはなさそうだ。では、下はどうだろう。

港湾都市神戸の鉄道ターミナル駅であるJR三ノ宮駅から、JR東海道線とJR山陽本線の起点・終点であるJR神戸駅の間には、高架下商店街が構成されている。いや、いた、と言ったほうが良いかもしれない。近年は強度対策や土地の利用についての見直しや再開発の過程で多くの従来の街並みは消え、現在は区間ごとにそれぞれの再開発が進んでいる、と言った状況である。

ファッション、雑貨、靴、日用品、スイーツ、パン、または創業者向け支援オフィスまで、約1kmにわたって実に種々様々な空間が広がる、元町高架通商店街、通称では「モトコー」とも呼ばれている。このモトコーに忽然と駐輪場がある。

高架下空間の最大の利点は、既存の鉄骨やコンクリート構造がそのまま屋根になることだ。雨や雪、夏の強い日差しから自転車を守る屋根を新たに建設する必要がない。取材した駐輪場でも、重厚なコンクリートの桁が整然と並び、十分な高さと強度を備えた天井を形成している。
鉄道高架の特徴である細長い空間は、自転車の駐車にも適している。自転車は車と違って方向転換に広いスペースを必要としないため、線状の空間を効率よく活用できる。中央に通路を設け、両側に自転車を配置するレイアウトは、空間効率と利用しやすさを両立している。

鉄道利用者と自転車利用者の重なりは想像以上に大きい。駅まで自転車で来て電車に乗り換える「自転車+鉄道」の組み合わせは、日本の通勤・通学スタイルの主流の一つだ。高架下駐輪場は、この移動パターンにとって最適な立地条件を満たしている。この駐輪場の目の前には、神戸高速鉄道花隈駅がある。
取材した駐輪場の利用時間は6時30分から23時まで。これは電車の運行時間とほぼ連動しており、早朝から深夜まで駅を利用する人々のニーズに対応している。ニューヨークのハイラインのような観光・レクリエーション目的の空間とは異なり、日常的な移動インフラとしての実用性が重視されている。
プロムナード・プランテやハイラインのような象徴的プロジェクトが都市の「顔」を作っているとすれば、高架下駐輪場は都市の「足腰」を支える存在だ。派手さはないが、毎日数百人、数千人の移動を支える実用的インフラとして、持続可能な都市交通システムの重要な構成要素となるからだ。

世界の鉄道空間活用事例と比較すると、高架下駐輪場は機能的である。観光地化や話題性よりも、日常的な利便性と経済合理性を追求した結果として生まれた、地味だが完成度の高いソリューションだ。
鉄道インフラの活用方法は一つではない。もちろん緑地公園のような劇的な変身も素晴らしい。既存の都市機能を静かに支え続ける高架下駐輪場もまた、現代都市にとって不可欠だ。毎朝この駐輪場に自転車を停めて電車に乗る人々にとって、ここは単なる駐車場ではなく、持続可能な都市生活を可能にする重要なインフラなのである。

無料で24時間近く利用できるこの駐輪場は、確かに公共空間の理想を体現している。誰でも平等に利用でき、経済的障壁もない。しかし、この公共性には必然的な代償が伴う。
筆者の予想では、この駐輪場の利便性が知れ渡り利用者が増えれば、現在の様式美的な秩序は確実に崩壊する。整然と並んだ自転車は雑然とした配置に変わり、壁には「正しく駐輪してください」「長期間の放置は撤去します」「盗難に注意」といった注意書きが増殖していくだろう。
やがて防犯カメラが設置され、管理人が巡回し、利用ルールが細分化される。最終的には有料化や利用制限が導入される可能性もある。公共であろうとするほど、管理と規制が必要になってしまうのだ。
今現在のこの駐輪場は、意図せずして興味深い「作品」になっている。それは「潜在的機能の美学」とでも呼ぶべきものだ。使われる可能性を秘めながら、まだ使われていない状態の美しさを指している。しかし、この美しさは本質的に一時的なものだ。
だからこそ、いまここに始まったばかり(に見える)高架下駐輪場は貴重な存在なのだ。
緑地公園は「見せる美」を安定させる。それは木々や芝生の手入れが余念なく行われるからである。
自転車駐輪場は芸術的な非日常性を持つのだろうか。それはどのような自転車がやってきて、どのような自転車がその駐輪場に並ぶのか、その道筋の芸術性に大きく左右されるのだろう。
