Cycling Edge 38: さいたまの夜騎開封・対談

以下は、ツアー型パフォーマンス「“夜騎開封” さいたま←→鄭州」を企画・実施された小林遼さんと、そのパフォーマンスに参加した赤松正行による対談です。体験記事に記したように、筆者、赤松にとって時間や空間のエッジ(境界)が曖昧になる印象深い体験であったとともに、いくつかの疑問が残りました。そこで小林さんに対談をお願いしたところ、快く引き受けていただいた次第です。

小林遼(以下、小林):遠方より、さいたま市までお越し頂き、また長時間の作品参加お疲れさまでした。ご参加いただきありがとうございます。構成・演出(音響)・テキストを担当した小林といいます。

小林:もちろん、夜騎開封というイベント自体にも関心があったのですが、このイベントが”中国””鄭州”で興隆したことに必然性はあったのかが気になっていました。抽象的に言えば、場の固有性←→交換可能性の緊張及び、その土地に暮らす私たち人間の他性/共有可能性←→自律性の緊張関係に関心があります。題名にある、さいたま←→鄭州とは、夜騎開封の発祥地である鄭州市と”友好都市”であるさいたま市、この2つの都市の間にある緊張関係を表現したものでした。

小林:参加者に特定の街の歴史を知らせ、走行させることは(徒歩より幾許か和らげられる気もするが)、その土地の歴史のレイヤーに触れていく強靭な経験です。この場の固有性の対極にあるのが、グローバルなチェーン産業が世界中に進出した結果生まれる画一的、他の場所の風景と交換可能な場所性です。どちらがよりいいかという議論以上に、その風景を構成するイデオロギーに大きな隔たりがあるように感じています。さいたま市と鄭州市、似ているところもあるし、当然違いもあります。これは、ヒトの自己/他者を考える際にも同様で、他者との相似性と、反対に他者との同一化に抵抗する自律性が存在します。こうした、極と軸を扱うために、私自身は身体性に立脚して作品創作を行います。例えば、参加者が行為主体となることで、パフォーマンスの中でこの軸上での位置が変化することを体験するなどです。

撮影:林北斗

小林:忠実に動作を行って欲しいのであれば、動作をデモンストレーションをするファシリテーターを配置するのがいいのですが、動作を強要することは行為の主体性を減じてしまうので、今回のような近くでガイドが動いている形にしました。また、今回はフラットな地面へのアプローチが多かったので、アフォーダンスとしても動き出しを参加者が決定する(例えば、椅子があるときに座ってもらうのは指示が理解しやすいですよね)ことが難しかったかもしれません。そして、今回は試演については体験の要素が多い(AR+オーディオ+他のアプリケーション)のでより迷われたかもしれません。

小林:参加者としての私個人は仔細に指示されるのを好まないという単純な理由もありますが…集団行動に紐づく行為の強制力に注意しています。例えば寝そべるかどうかは誘導されているとは言え、個人に委ねられています。その行為ができない/したくないという参加者の感覚は、オーディオで語られるボイス・オーバーの語りとは不一致であり、これは参加者の自律性を高め、参加者自身の境界を明瞭にするために重要です。ややもするとボイス・オーバーの語りと同一化することは心地よいのですが、耽溺してしまうと同一化←→自律性の緊張関係は生まれません。

小林:今回は特に終了時間も曖昧で、走行する道の地図も共有しなかったのでより目的がない旅になっていましたね。本作は、日中友好都市の歴史を遡及する集団の夢だったかもしれません。

小林:いわゆるロケハンとして脚本/台本にそった場所を探すということはあまりありません。夜騎開封や、日中の交流に関してのテキストやSNSをリサーチした上でさいたま市内を自転車で巡りながら立ち寄った場所でインスピレーションがおきれば採用しています。あとは、現実空間なので自転車で走行できる範囲で立ち寄る場所を選定します。高架の自動車道にあった旗は、浦和レッズの応援旗で、試合日だった当日3月8日に出現して私たちも驚きました。

小林:夜騎開封自体が、次第にデモンストレーションへと様相を変えて行ったのは必然だったのかもしれません。歩行型のツアー・パフォーマンスを創作してきた経験から、数人で歩行することに比べ、自転車で集団走行する方が、凝集性と熱を帯びた行為だということに、創作活動を通して気づきました。普段は問題なくレンタルできるシェアリングのサーバーがダウンするほど、さいたまスタジアムに集結するのは一種の群衆行動ですよね。

撮影:林北斗

小林:ARなども活用したら、夜騎開封の熱気を再現できるかもと思ったのですが規模感が違いすぎて早々に諦めました(笑)。作品としては、”鄭州を出発した最初の少女”(第一个从郑州夜骑开封的女生)がシェアサイクリングで開封まで片道自転車ツアーを行ったことを模倣しながら、日中両国の思惑に翻弄された”流浪”の人々を描いていきました。まさに、青春の片道切符ではないですが戻ることを考えなくていいのが、モビリティーをシェアしていることの特徴ですよね。

小林:従来の歩行型のツアー・パフォーマンスにおいても、ボイス・オーバーによる語りと環境音をミックスした音源をスマートフォンからイヤフォンを通して聞いてもらう(参考記事)ことは行っておりました。今回新たな挑戦となったのは、自転車をモビリティーとして用いた以外に、振付家の涌田悠さんにムーブメントとそれにまつわる言葉について考案いただいたことと、メディアアーティストの志村翔太さんには企画の原案を共に考えていただき、視覚効果としてARなどを実装いただいたことです。

撮影:林北斗

小林:当初のアイデアは、志村さんが文字を実環境に投影する作品を制作されていたのでそれに倣い、自転車走行中に中国語が見えたら面白いなと考えたのですが、道交法上脇見運転となってはいけないので実現できませんでした。私がテキストで扱っていた人物は、どれもキャラクターとしての実体をもちません。創作の人物だから、実体がないのではなく、1人のキャラクターとしての自律性を付与されていない、幽霊のような存在です。なので、ボイス・オーバーとの相性が良いのですが、視覚化することが困難でした。ARの浮いていてぺらぺらな感触は霊的な存在を表現するのに向いているかもと思って、人型のARオブジェクトを作成いただきました。技術的にARオブジェクトに動きをつけることが難しかったので、彫刻のように1つの静止ポーズで表現を試みました。動きのイメージがつかないオブジェクトと、それが予見されるオブジェクトの2種類を作成しました。

小林:ARをどのように見るべきというお作法があるわけでもないですもんね…一般的にはどのような処置・指定がなされていることが多いのでしょうか? 森のシーンでは、中身がないペラペラな人型ARオブジェクトを着るようにして同じ姿勢をとっていく。他者の行為を真似る、とかえって真似し得ないことに気付けるかだろうかと試していました。そして、一致しきらないことを起点に、別のムーブメントに移行していく。

小林:ありがとうございます。ARを活用した体験に関しては、志村さんの協力で今回はじめて挑戦できました。演劇/パフォーマンスにおける可能性を感じました。今後、知見を深めたいと思います。

小林:特に都市において歩行をイベントとして行う際には、シチュアシオニストやハルプリン夫妻に代表されるように、行政区分や道路網による規定された都市体験をいかに逸脱して、再構築するかが目指されていることが多いように思います。歩行それ自体が身体運動ですので、個人の身体経験とローカルなサイトが接続しやすい。感覚としては、ミクロなポイントにフォーカスしていきます(トマソンや、古の道標に気づくなど)。これと比較すると自転車で走行することは、スピードも早いので風景は凝視されるより”流れていく”、だけど漕ぐという身体運動は必要である。インダイレクトな形で自分の身体運動がある場所同士を接合していく、これが場所性を扱う上で、歩行や自動車とは異なった体験なのかなと思っています。作品としてもある地点に立脚しているというより、浮き足立った感覚であることが複数の物語を参加者の身体に浸入させるには適しているのではと考えました。歩行に比べて、漕ぐ動作は単調であり、視界も遠方を向きやすいので、ローカルな場所を探索することより、走行行為それ自体に注意が向きやすく、集団で走行する時はより祝祭的?といっていいのか、みんなで漕いで進むことがグルーブを生むような気がしました。

小林:自転車乗車中のアクティビティに関しては、今まで考えたことがなかったので全くの手探りでした。自転車走行中の”流れていく”風景は小説のようなリズムを感じたので、語りを聴きながらの走行も検討したのですが、文字と同じく道交法上難しく、また参加者の立場からすれば、走行しながら語りを理解する余裕はなかったかもしれません。走行中に音楽を流すアイデアは、志村さんとさいたま市内を自転車で探索しているときに、スピーカーから音楽を流しながら走行する自転車と複数回遭遇したので、一種のさいたまの文化として認知しました。上演で流れた音楽は2つとも夜騎開封と関係するもので、日中関係を表象するものとして用いています。自転車ツアーにおける、個人と集団のありように関しては、私自身もっと知識と経験が深められたらいいですね。

撮影:林北斗

小林:どうやら、さいたまでは、自転車走行中にスピーカーから音楽を流している方が一定数おられるようです。なので、そこは一致していますね(笑)。夜騎開封が鄭州で盛んとなった理由は結局不明ですが、さいたま市と同じく内陸部で高低差が少ないことが自転車文化を醸成するには適していたと言えるのではないでしょうか。友好都市という”お見合”から結び付けられた両市ですが、両市には制定の以前から現在まで有形無形の関係が連綿と続いているようです。パフォーマンスとは、常に事実の提示ではなく、ある種の可能性に言及する行為です。パフォーマンスを通して、現代の両市の風景から、その土地に暮らした/暮らさざるを得なかった人々に思いを馳せていただけたら幸いです。

小林:こちらこそ、赤松さんにお声がけいただき、自分たちのパフォーマンスについて、再考することができました。この度は貴重な機会をいただき本当にありがとうございました。

撮影:志村翔太

註:この対談は2025年3月10日から3月17日にかけて、オンラインで共有ドキュメントを交互に書き進めるかたちで行なわれました。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です