イギリス生まれの人類学者ティム・インゴルドのエッセイ「The Seat and the Saddle: How Slow Is Quick and Fast Is Stuck」と題したものがある。地域の再生にサイクリングやウォーキングの道がなぜ、そしてどのように役立つのかを調査した様々な記事の中の一つである。(Cycling & Walking for Regional Development)
この『シートとサドル』は、スピードを追求する現代社会の中で、自転車に乗るという行為を通して「速さ」と「遅さ」の価値を問い直すものである。川の流れを用いた比喩や、自転車と車という移動手段の対比を通して、インゴルドは「移動」の本質についての考察をしている。
はじめに、『シートとサドル』における自転車の扱いが、やや楽観的に過ぎるところがあることは指摘しておきたい。インゴルドは、自転車の「サドル」に座ることは、周囲の環境や流れに身をゆだねる自由で豊かな体験を象徴しているとしている。だが、実際には自転車の利用も一面的ではない。都市部の自転車通勤や長距離のロードバイクでの競技など、「サドル」の上でも効率性や速さを追求する人々は存在しているからだ。これらの現実を踏まえないことで、理想化された印象が強く、「サドル」と「シート」の象徴性がやや誇張されている面は否定できない。
インゴルドの議論の核を一言で表現するならば
「シートは乗り手を環境から隔離するのに対し、サドルは乗り手と環境との一体化を可能にする」
ということになる。
具体的に比較してみると以下のようになるだろう。
シート(車の座席など)
- 乗り手を包み込み、外界から守る
- 動きを制限し、前方のみの視界を強いる
- 環境との接点を最小限にする
サドル(自転車など)
- 乗り手の身体の自由を保つ
- 360度の視界を確保できる
- 環境(風、路面、温度など)を直接感じられる
提案されているのは、速度や効率を優先する「直線的な移動」から、旅そのものを楽しむ「多様な移動」へと視点を変えることの大切さと言えるのではないか。忙しい中でも、あえてゆっくりと自転車に乗り、周りの風景や自然のリズムに目を向ける、このような移動のあり方は、現代のライフスタイルに対する新鮮な視点を与えることは確かだろう。環境との関係性や知覚の質を重視するのは、ティム・インゴルドの思考のいわば本質とも言える。
今後の自転車文化は、単なる「移動手段」としてではなく、環境との豊かな関係性を構築する「メディア」として発展していく可能性が探れることをサポートする文章と捉えることもできる。その中で、「サドル」という存在は、人と環境をつなぐ重要なインターフェースとしての役割を果たす。
もちろん、サドルという形があればよいのではない。シートに腰掛けるようにサドルに座って自転車を漕いでいる場合もある。インターフェイスであるならば、ユーザーである乗り手からのインプットによってそのプロセスは変化する。移動を享受するのではなく、真剣に移動することを受け入れること、インゴルドの風味を加えるなら、そのような提案が、このエッセイなのではないだろうか。