仕事場への行き帰り、自転車で転がっていく恍惚

この春、リモートをやめて通勤することになった。経路には大きな駅への自転車区間が含まれる。二年ぶりに走り出してみたら、一瞬で多幸感に満たされた。四月の河川敷をお気に入りの自転車でクルーズなんて快いに決まっているけれど、実際に感覚情報の洪水に身を委ねる時間は、本当に圧倒的で笑いがこぼれるばかりだ。

往路の瑞々しさも良いし、復路の優しい倦怠も良い。人と人は近過ぎず、それぞれの道行きを穏やかに見送ることができる。虫たちは容赦なく鳴き、こちらに身体を叩きつけ(向こうからすれば逆だろう)、まだ飛べるものは飛び去っていく。落葉樹の葉が重く厚く茂る前の、まだ薄くて柔らかい時期が好きだ。

自分のものでしかない時間を、強いて生み出すのではなく、用事のついでに過ごす。そこには逆説的な自由があると思う。何かをやろう、得ようといった欲を伴いにくいからかもしれない。ただ当たり前に、そういう生き物という感じで転がっていく。ツーリングの道中にやってくる、あのくつろいだ没頭もたぶん同じだ。その場所が自分のものに/自分がその場所のものになる感覚。それを追いかけず、気がついたらもう纏っているようでありたい。

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