銀(塩)輪車 第4回 オペラトール

前回の第3回では本連載の試作1号となるピンホールカメラを用いた撮影を行ったが、結果として露出不足の写真が出来上がってしまい失敗作となった。今回の第4回では異なる撮影・現像方法を試す予定であったが、今月は撮影及び大学の暗室を借りる時間が取れず試作2号を行うことが叶わなかった。そのため今回は一度、手を動かすことを止めて今後の方針を考え直すことにする。

結果的に今回は自転車に関する記述がほとんどなくなってしまった上、つらつらと続いていくような文章になってしまったが、本連載はこのような模索と思考の記録としての役割も持っているということで、了承願いたい。

ピンホールカメラと露出時間

先ず初めに本連載で使用しているピンホールカメラについて考えてみる。試作1号の失敗も含め、現在自転車に乗る行為を記録するにあたって最も問題となっているのが、露出時間と現像方法である。現在使用しているピンホールカメラは、第2回にて100均のアルミ缶に穴を開け、印画紙を中に入れて自作したものである。このカメラで約2日間露出を行い、現像液等を使わずに直接スキャンする方法で実際に写真は撮れた。ただ自転車に2日間=48時間ずっと乗っているということは非現実的である。

露出時間は1時間から2時間にするのが現在の目標である。これは、筆者が個人的にライドに行く際の大体の所要時間がその程度だからである。また、この作品を制作するにあたっては上手く写真が撮れるようになった際には、様々な都市やルートを記録したいと考えている。露出時間があまりにも長過ぎると1回のライドでは露出が足りなくなってしまう可能性が高いため、先ずは1時間前後を目指している。

ピンホールカメラになる前のアルミ缶

そこで第3回の試作1号では試験的に8時間のライドという、比較的長いライド時間の間に露出を行ったが前述の現像方法では真っ暗な写真が出来上がってしまった。そこで、従来の現像液等を用いる方法で印画紙を現像する方法を考えてみる。現像液等を用いて現像を行う場合、通常の印画紙では長くても10分から15分程の露出時間が限界であるだろう。つまり、この現像方法では長くても15分間のライドしか記録できなくなってしまうのである。

そう思っていたのだが、先日大学でピンホールカメラについてなんとなく調べていたところThe Pinhole Galleryというサイトに出会った。見たところDave Clarridgeという方が運営しているサイトで、ピンホールカメラについてのあれこれを丁寧にわかりやすく発信しているサイトのようだった。世界中のピンホールカメラユーザーが自身の写真を投稿することのできるギャラリーも載っている。このサイトにExposure Guideというものがあり、そこにはピンホールカメラで撮影する際に、印画紙や様々なISOのフィルムを用いた場合の露出時間が表になっている。

The Pinhole Galleryに掲載されている露出時間の表

この表によると、印画紙を用いた場合の露出時間は快晴の日に17秒、早朝や夕方では1時間30分程で撮影できるとある。これはおそらく現像液等を用いた現像方法を想定している表なので、これなら1時間半、もしかすると2時間以上のライドも撮影可能かもしれない。ただ、ひとつだけ懸念点となっているのがピンホールカメラのレンズ口径、すなわちのFストップ(焦点距離を口径で割った値)である。

The Pinhole Galleryに掲載されているこの表には、露出時間を見極めるためにピンホールカメラのレンズ口径を記載している。筆者が自作したピンホールカメラは、アルミ缶に口径など気にせずに穴を開けたものなのでもちろん口径などわからない。ましてや針穴のような極小の穴の大きさを測る術もない。ただ、口径がはっきりしているピンホールカメラがあれば、表に従って上手く撮影できるのならば作り直したいという気持ちになった。

正確な口径を持ったピンホールカメラを自作するのが難しい場合は、既製品を購入するという手段もある。最近カメラ屋に入ると新商品としてこのようなセットが販売されている。あまり詳しくは見ていないが既製品のカメラを用いればレンズの口径という問題も解決するかもしれない。試作2号に向けて検討したい。しかしThe Pinhole Galleryの文章にもあるように、ピンホールカメラとは元来とても自由なものであり、試行錯誤を繰り返していくものであると感じるので、楽しみながら探っていきたい。

化学的性質と物理的性質

さて今回はここまでで、言わば技術的な内容について書いてきた。ここからは一度、撮影手法やカメラに関する技術的な話ではなく、本連載の当初の目的に立ち返るような内容を考えてみることにする。第2回及び第3回では、ピンホールカメラを用いて撮影するという作業の方に重きを置いてしまったが、写真で記録することによって「何が映るか」、そしてそれを「どう見せるか」という点について十分な考慮が至ってなかった、と振り返って思う。

この2点は第2回のコメントにて指摘されているそのままの言葉であるが、今回試作をすることが出来ず手を動かすよりも思考する時間があったことでその重要性を再確認することができた。現在筆者はロラン・バルト『明るい部屋』を読み始めたところであるため、その序盤の文章を参照しながら足りていなかった観点について書いていく。

第3回までは「映す」ことに集中していたため、そもそも「なにが映るか」に関しては何かしらが映った後に考えよう、といった考え方を持っていた。たただこの連載で忘れてはならいなのは、自転車に乗るという行為を銀塩写真を通じて記録する、という当初の目的である。映すことでその行為と体験を記録することも重要だが、記録である以上それをどのように共有するか、保存するかということも同様に重要なのである。そしてそのようにして、本来共有することが難しい自転車に乗るという行為をハックしていくことが本連載の目指すことである。

ロラン・バルトは以下のように書いている。

私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることに注目した。すなわち、撮ること、撮られること、眺めることである。

ロラン・バルト.(花輪光訳)(1985)『明るい部屋』みすず書房

そして撮影された人物や事物というのは、標的であり、志向対象であり、一種の小さな模像であり、対象から発した一種の分身=生霊である。私はそれを、すすんで「写真」の「幻像」(Spectrum)と呼ぶことにしたい。

ロラン・バルト.(花輪光訳)(1985)『明るい部屋』みすず書房

技術的には、「写真」は、二つのまったく異なった手順が交わるところにある。一つは化学性質的にもとづくもので、ある種の物質に感光させる作業、もう一つは、物質的性質にもとづくもので、ある光学装置によって映像を形成する作業である。

ロラン・バルト.(花輪光訳)(1985)『明るい部屋』みすず書房

今までは引用の文章でいう「幻像」への考慮と写真を眺めるという点においてが足りなかったと言えるだろう。そして何よりも今回気が付いたのは、筆者はこの自転車に乗る行為の記録として撮れる写真と、それを撮る際の自転車に乗る行為という2つの事柄を完全に分断して考えてしまったことである。ロラン・バルトのいう写真の物質的性質、すなわち「ある光学装置によって映像を形成する作業」を考えた際、ピンホールカメラを取り付けた自転車というのはそれ全体が既に光学装置となりうるのではないだろか。

そしてもし「ピンホールカメラを取り付けた自転車」が写真を撮るための光学装置ならば、その自転車に乗る人間自身もまたその一部となるのではないだろうか。自転車に乗るという行為は、自動車や電車に乗るのとは異なり、どこか身体と自転車が一緒になって筋肉の生み出す運動を拡張してくれるような感覚になる。そのような自転車と身体の一体感というのが、ピンホールカメラを取り付けた自転車でも感じられるのならば、初めて「撮影者(オペラトール)」であるはずの人間が、写真を撮るための「光学装置」となりうるのではないだろうか。

(中略)「撮影者」にとっては、「写真」は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)の鍵穴によって切り取られた視像と密接に結びついている(中略)

ロラン・バルト.(花輪光訳)(1985)『明るい部屋』みすず書房
ロラン・バルトは1955にツール・ド・フランスに関する文章(『Le Tour de France comme épopée 』)を書いている

続く、自転車がなくなる

このようにして、筆者の未熟な理解力で『明るい部屋』の一部を読み取り本連載へ応用するという試みを今後も続けて行こうかと考えている。やはり自転車に乗るという行為を写真で記録するには、そのカメラや現像方法のみを考えるのではなく、「映す」、「映る」、「見せる」といった要素までを考慮しながら試行錯誤を重ねていきたい。

次回はまた自転車に乗って試作2号を行う予定である。しかし、諸事情により11月初旬から私の愛車が遠くへ行ってしまうことになっており、来年2月までは乗れないことが決まっている。来月の初めに試作2号は無事完遂できたとしても、それ以降の連載はどのようにして進めていくかを考える必要がある。何か良い提案がある方は是非教えて頂きたい。

それでは、また。

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