1996年、私は引っ越しの荷物を乗せた父親の自動車の助手席に座って、京都への道のりを進んでいた。しかし、この時に車窓から見た風景をほとんど覚えていないのだ。
この時に通ったルートは「有馬道」と呼ばれている。風景を覚えていないのになぜそれが分かるのか、と言うと、父親がそう呼んでいたからだ。その時に通ったルートと全く同じではないし、一部を通っただけなのだが、そのルートはOpen Street Mapで確認することができる。
https://www.openstreetmap.org/relation/8259673#map=11/34.7890/135.4079
高速道路、自動車専用道路が整備されるに従って、このような道の交通量は徐々に減っていると思われる。2020年の現在、阪神高速7号北神戸線が通っており、同じ道を自動車で行き来する時には私も高速道路を使っている。
風景は覚えておらず、道も正確にこうだったとは言い切れないのだが、それでもこの時この道を通ったことは忘れようはずはない。
1995年1月17日、私の京都での一人住まいを始めるための引っ越しより1年前、阪神淡路大震災によって神戸市一帯の交通網は甚大な被害を受けた。それから1年以上がたっていても交通状況は十分には回復していなかった。
平常時であれば神戸を阪神高速道路で横断して名神高速道路を通って京都に至るルートを選択するが、代替経路として有馬道を経て京都へ向かっていたのである。
あれから25年、もしも今同じことが起こったとしたら、自動車は通れず、鉄道も動かないという状況になったとしたら、今の自分はあの道のりを自転車で走破できるかどうか、それは私にとって大きな一つの指標となっている。
必要物資を積載した状態でも、舗装路が寸断されていればMTBを使ってでも、あの距離を移動できるかどうか、それだけのメンテナンスが機材に対しても、自分の身体に対しても、日々できているか、これらは私なりの災害への備えの一つであり、あの時の記憶を呼び起こすための自問自答なのだ。
峠越えを含むサイクリングルートを走ると、しばしばトンネルに遭遇したり、ある特定区間だけ広さや舗装状態が変わる区間などに気付くことがあるだろう。こうした所には代替経路が存在していることがある。
今は使われなくなった旧道や、トンネル開通前には山を越える手段だった登り道の始まりが、どこかにある。封鎖されて通れなくなっているところも多いだろう。
しかしこれらの多くは「代替経路」として作られたのではない。むしろ、もともとはそちらが本来の道だったのだ。今、自動車がビュンビュンスピードを出して走っている道のほうが「代替経路」なのだ。
多くの代替経路が、その作られた時代背景もあって自動車優先の作りや設備となっていることは、結果的に自転車にとっての大きな恐怖と実際的な被害によってしか気付かれにくい。都市においては「代替経路の代替経路」が求められる時に至っているだろう。
しかし、新たな土木工事を起こせと言うのではない。世界の潮流はサステナビリティ(持続可能性)である。使われなくなった道も、自転車ツーリングをしていると不意に入り込みたくなるような魅力を持った脇道も、あらたな交通路として掘り起こすことができる可能性がある。
最新の都市設計においては、自転車の通り道を自動車の通り道と揃えつつも区別するという試みも行われつつある。このような潮流には持続可能性とあわせて注目していきたいところではないだろうか。
自転車家と共にサイクリングをしていて、ふと、何もなさそうな藪の方や、道路脇の不要物のようなガードレールを注視していたら、そっとその後ろに立ってあげて欲しい。彼らは匂いを嗅いでいる。分かるのだ。徒歩で行き交っていた頃や、あるいは獣だった頃の遺伝子の記憶とともに。
そしてそのような道は、もしかしたら主要な道路が封じられた時に、行かなくてはならない所へ向かって進むための大切な経路となる可能性がある。なぜならそこは元々、だれかが使っていた実績のある道であるかもしれないからだ。
徒歩では届かないかもしれない。自動車では越せないかもしれない。でも、自転車ならなんとかなるかもしれない。そんな道であるかもしれないからだ。
新たに出来た道の方が便利なのだから、わざわざ苦労する道を選択するような手合いが自転車乗りには多い、という声に対して怒鳴り返すようなことはしない。それはそれは大変多い。無駄なこともしているかもしれない。
しかし、ふと問うてみる。地震でこの橋が落ちたとしたら、このトンネルが崩落したとしたら、あなたは大切な場所に向かうことを諦めるのですか?
そして我々は記憶に留めるべきなのだ。道はある時突然潰れる場合があることを。
それでも、なんとしてでも道を見つけ出す、そのような過酷な状況は無いに越したことはない。そんな状況には、なってほしくない。だから自転車家たちがマゾヒスティックな連中だと思われ続けているほうが、世界のモビリティは安全安心なのである。