10月
10月の週末には、さまざまな用事が立て込んでいる自転車家も多いことだろう。のんびりゆっくりと散策するようにサイクリングしたり、焼きたてのパンを買って行くあても決めないままに走り、何処ということもなく腰をおろしたらその場でパンを食べ始めていた、そのような時間を嗜む自転車家も、ひとたび家に戻ると色々と忙しい。
何しろ運動会や秋祭りなど、普段から自転車に乗って身体を養っている人にとっては、上空のトンビに狙いを定められたパンのように、いつ我が身を拐われるか知れぬ催しがある季節だ。ここで注意しなくてはならないことは、自転車家は自転車の上でのアスリートであって、リレーや綱引きなどの陸上競技においては凡庸であると自覚することである。さもなくば、気持ちと身体のサイクルの不一致によって、急激な運動が原因の肉離れを起こすという事案が後を絶たない季節だ。
自転車家はなぜだか知らないが情報機器が大好きなことが多いので、スマホやアプリを駆使しつつ、ルートを考えるのも楽しみである。走ったことのあるルートに走ったことがないが存在は知っている道を組み合わせることで、新しいルートを作り出していく。それを自転車家同士でシェアする。これらはまことにソーシャルな行為と言えるのではないか。
ここで、本連載を掲載しているクリティカル・サイクリングの「宣言」に目をやってみる。
https://criticalcycling.com/about/#manifesto
この中の宣言の一つに着目したい。
3)自転車に乗ることは、発見的である。なぜならヒトは、ハンドルで導きながらペダルの循環運動を通じて、世界をスキャンしているからだ。つまりサイクリングは、オントロジー(存在論)である。
これを筆者なりに解釈するならば、発見するものは走ることで決定される世界の形であり、つまりはその時々にあらわれる地面の起伏であり、季節の空気であり、辿った道の軌跡である。
前回、プログラミングツール「LOGO」とその作者であるシーモア・パパートを引き合いにして、カメの移動軌跡を記述することが、体験的なプログラミングの学習に用いられる事例を紹介した。LOGOの考え方の背景には「発見」に相当するものがあると考えられ、上記の「ハンドルで導きながらペダルの循環運動を通じて世界をスキャンしている」ことは、世界に自らを同化し調節することでもあり、クリティカル・サイクリングとプログラミングには、共有できるマインドがあると考えている。
LOGOはコンピュータの中の平面、かつ、計算機とディスプレイによって構成された無質量の世界におけるプログラミングを学習するために作られたプログラミング環境だ。筆者はクリティカル・サイクリングらしく、このカメを自転車と、ディスプレイを現実世界と交換することを構想した。そして、作られたのが「養老アートピクニック」において展示される「パラメタ・テラス」である。この場合プログラムを実行する主体はだれか?それは自転車を走らせる自転車家である。
パラメタ・テラスは自転車で走る経路を自分の手で作り出す、そのような一種の「プログラミング環境」と考えている。ここではその経路が共有(シェア)することが念頭に置かれているため、公園の中にある芝生広場という、様々な人が行き来する場所であることが適していると考えた。
このパラメタ・テラスを作る過程がプログラミングなのか?それともこのパラメタ・テラスを用いて行う活動がプログラミングなのか?という問いかけがあるとすれば、これは後者になるだろう。パラメタ・テラスの形に自由をあたえる、そのためにはまずこの道を走ってみることが一番の手がかりとなる。LOGOに沿っていうならば「カメの気持ちになって考えてみる」のである。
プログラミングしてプログラムを作る、というと難しい作業を想像されることも多いかもしれない。しかし、今在る世界の形をほんの少し変えてみたら、そのような想像の自由を入手することができたら、それはプログラミングの一歩なのではないだろうか。自転車で走り出すときに、決めた道を走ることもできるし、ほんの少し道を変えることもできる、坂道での頑張り度合いを変化させてみると違った体験も得られる、これらは同じ種類の自由だと、パラメタ・テラスは主張する。