アルフレッド・ジャリの超男性

アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry)の出世作である戯曲「ユビュ王」に続く、もう一つの代表作「超男性(Le Surmâle)」は、1901年、つまり20世紀の幕開けに書かれた「現代小説」で、自転車が重要なモチーフとなっている。ジャリは孤高の天才であり、アブサンとピストル遊戯に浸る破滅的な生活を送り、34歳で逝去する。一方で、自転車を偏愛して始終乗り回していたと言う。

「超男性」の前半では、永久運動食の効用を実証するために、自転車と機関車による1万マイル(約1万6千km)もの長距離レースが行われる。パリを出発してシベリア半ばで折り返してパリに戻る、僅か5日間で。実際に昼も夜もペダルを漕ぎ続けるのだが、5日間は120時間なので、時速133kmで走らねばならない。速度も尋常じゃないが、例え低速でも5日間も不眠不休で走れるわけがない。

しかも、自転車は5人乗りで5人の脚がアルミニウムの棒で連結されている。小さな無色の四角い塊である永久運動食をかじって栄養摂取する一方で、糞尿はパンツの中に垂れ流す。途上で一人が死亡するものの、腐敗臭を放つ死体を連結したまま、残る4人はペダルを漕ぎ続ける。だが突如として死者が超人的なペダリングを始め、自転車は加速する。時速300kmを超え、光の速度に挑まんばかりに。

このようにして自転車は機関車に勝利する。ゴールには観客が誰もいない。予想よりも遥かに早く到着していたのだ。だが、最早レースの勝敗どころではない。死者を含む5人乗りの自転車は、鋼鉄の塊である機関車以上に強靭で冷徹な機械と化している。自転車=生身の人間が組み込まれた精緻な金属機械に他ならない。逆に、機関車は未来の恋人を客車に乗せ、咲き誇る真紅の薔薇を飾るほど情緒的だ。

「超男性」は、さらに情愛と機械に話が進む。その前振りが自転車と機関車のレースだが、眩惑するような物語の本質は同じだ。すなわち、運動において肉体と機械を同一化し、精神を超克する超人願望だ。従って、最も機械化された運動である自転車は必然であったわけだ。イタリア未来派は自動車を礼賛したが、それよりも数年早く、ジャリは幻影のうちに人間を自転車に託した。

その際に抜き去し難く必要であったのは、身体を極限まで活性化する永久運動食に違いない。知性においても身体においても、卓越した能力を有していたジャリだからこそ、精神と肉体だけは充分でないことを知っていた。それゆえに、幻覚作用を引き起こすアブサンに耽溺し、一瞬即発のピストルを弄んだのだろう。これはもちろん今日のドーピングに繋がっている。哀れな我々の限界であり、一縷の希望だ。

ところで、ジャリを思い出したのは、ホークウィンドの「シルバー・マシン」だった。この曲をスペース・ロックとすれば「ユビュ王」はパンクであり「超男性」はテクノだろうか。クラフトワークは「マン・マシーン」においてロボットを歌うが、それは後の「ツール・ド・フランス」が相相応しい。むしろ「マン・マシーン」でこそ自転車を歌うべきだったのだ。

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