夏目漱石の自転車日記

夏目漱石の「自転車日記」は、留学中のロンドンで自転車に乗ろうと格闘する自身の姿を描いたエッセイ。無償の青空文庫や、Kindle版電子書籍としても入手できる。旧仮名遣いながら短編なので少し時間をかければ読み通すことができる。ラヴェンダー・ヒル、クラパム・コンモン、ウィンブルドン、バタシーと、今日でも馴染みのあるロンドンの地名が散りばめられているのも楽しい。

さて、漱石は1900年(明治33年)に33歳でロンドンへ国費留学、異国の地で神経衰弱を悪化させ、1902年12月に帰国の途につく。自転車日記は1902年秋の出来事なので、ロンドン滞在の最終盤、帰国の直前になる。自転車日記の初出は1903年であり、1905年発表の「吾輩は猫である」によって高い評価を得る少し前の執筆だ。ともあれ、自転車日記は、下宿先の太った婆さんのこんな言葉から始まる。

自転車に御乗んなさい

心を病んで自室に閉じこもりがちな人に、気晴らしの運動を勧めるのは妥当だ。だがなぜ自転車なのか? 経済的な余裕はなかったので、もっと手軽な嗜み、例えば、散歩でも良かったはず。婆さんが勧めた理由も、漱石が受け入れた心情も語られずに、知人に連れられて自転車屋に向かう。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」の言い切りに似て、この有無を言わさぬロケット・スタータぶりが面白い。

さて、中古の自転車を入手した日は、何度も転倒し、後ろから押してもらう。次の練習では坂を下るが、平地になっても止まれず、歩道に乗り上げる。郊外への遠乗りに誘われても承諾しない。自転車に乗れるようになっても、一人で転倒したり、他の人を転倒させたりする。最後には、馬車と馬車との間をすり抜けようとして、急に現れた他の自転車を避けられずに転倒し、馬に蹴られる。

このように漱石にとっては苦労と失敗の連続で、自転車ならではの爽快感や高揚感はない。それでも諧謔味のある小品として発表したのだから、心に強く訴える体験であったはずだ。それは憂鬱なロンドンでの最後の思い出であり、帰国後に作家として成功する曙光と考えても良さそうだ。それは後に余裕派と呼ばれ、「人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉える低徊趣味」(漱石の造語)だった。

つまりこうだ。神経衰弱に悩む漱石個人にとっても、近代的自我の発露の途上にあった日本社会にとっても、正しく必要であったのは「自転車」だったのだ。文明開化から富国強兵へと邁進する国家覇権主義に疲弊した人々にとって、世界をありのままに受け入れ、自己を解放する術が必要だったに違いない。それはもちろん鞭打つことでもなければ、拳を突き上げることでもない。たった一言で済んだ。

自転車に御乗んなさい

ところで、漱石の自転車はどのようなものであったのか、その考察は”サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン「自転車日記」“なる記事に詳しい。現代の自転車に比べると性能は劣り、道路の整備も進んでいなかった。漱石が断った郊外のウィンブルドンまで約10km、40分ほど。当時は倍ほど時間がかかるにしても、半日ライドとして楽しめる距離。漱石さん、行けば良かったのに。

夏目漱石旧宅からウィンブルドンへのルート
夏目漱石旧宅からウィンブルドンへのルート

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