自転車に「乗る」ためのレッスン 第26回 突然ながら最終回

気がつけば2年以上も書いているのだが、当初からもっとも気になっているゴダールの『勝手に逃げろ/人生』(1979年)に到達しない。つまり、自転車をきっかけに映像をみることがなんとなく楽しいということから、これを研究として分析する方法を探していたのかも知れないと、最近気がついたのだ。それは結果的に自転車から離脱するのだが、この文章を書いていたことからはじめていた「メディア技術の諸相を主題とした、NHKのテレビ・ドラマの自己省察的表現に関する研究」(2020年)と、「「メディア技術を主題としたテレビ・ドラマの自己省察的表現に関する研究」(2021年)だ。

この研究の趣旨は、テレビ・メディアという終わったコンテンツと呼ばれて久しいこの形態が、業態としてはさておき、以外に延命しているのだが、よくよく見ていくと、次から次へと現れるメディア技術に淘汰されることなく、相互依存的に展開(文字通り拡がっていく)し、新旧メディアは入りみだれていくという特性に注目してみようということだ。さらに言えば、現象の分析を通じて、新しさを価値基準とする、モダニスムを批判しようという企てなのだ。

で、どこがこの連載と関連しているのか? まぁもちろんぴったり一致するわけではないが、2点ある。

ひとつめは、それこそ徒歩から乗馬、馬車、機関車、自動車、完全自動運転など、人類にとっての移動手段の有史以来の順番はさておき、利便性だとか最適化といってもそこそこ淘汰されても、いずれも絶滅したりはしないではないか。大体ぼくはこの歴史のどこに自転車が登場するのか、よくわかっていない。なぜなら現在も存在するからだ。当たり前のことだが、「新しさ」にだけ価値をおいていると、そんな当たり前のことを見失う。というか、モダニスムとは意識の上で、同時代のなかに並列するさまざまな現象や状況に対して盲目になると言うことなのだ。クリティカル・サイクリンにはモダニスムの思考がある一方、自転車から世界をみることで、技術革新という言葉が持つ、他を排除し、淘汰するに違いないという幻想を解いてくれるのでは無いだろうか。

もうひとつは、排除でもなく淘汰でもなく、メディアがメディアを包摂していくということだ。『勝手に逃げろ/人生』について書こうと思っていたことは、映像とは動いているものを映すことで、だから画(え)が動くのだ、ということを、スローモーション(静止?)が多用される、印象的なサイクリング・シーンから考えようとしていた。それは映画のなかにビデオも含まれれば、テレビ、写真、絵画という、イメージのメディア技術が自己省察的に現れる。「あらすじ」がその表現をつくるのではなく、メディアの自己省察性が物語を表象する。実際に『勝手に逃げろ/人生』では、歩行や馬、サイクリング、電気機関車、自動車、F1などなどが登場すし、クリティカル・サイクリングが、自転車をメディアとしてとらえることを促していることを起点に、自分が何を見て、考えているのかを理解することができた。

つまり、視聴者である僕は、この理解を通じて芸術体験をしていることに思い至った。そういうレッスンだったのではないか? そんな心境にいたり、一度この連載を終え、自転車から離れた映像メディアのクリティックへしばし潜行してみたいと思う。ではまた他日。

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