金子みすゞの電報くばり

大正から昭和にかけて活躍した童謡詩人、金子みすゞは、26年間の短い生涯に500編以上の詩を遺している。もっとも有名なのは「わたしと小鳥と鈴と」だろうか。「みんなちがってみんないい」と100年近く前に高らかに多様性を謳っている。いや、それは絶望からの希求かもしれない。それほど薄倖の人生であり、最後は自ら命を絶っている。そんな金子みすゞが自転車の詩を書いていることに、ふと気がついた。

赤い自転車、ゆくみちは、
右もひだりも麦ばたけ。

赤い自転車、乗ってるは、
電報くばりの黒い服。

しずかな村のどの家へ、
どんな知らせがゆくのやら、

麦のあいだの街道を
赤い自転車いそぎます。

金子みすゞ「電報くばり」

正しくは電報についての詩であり、電報を配る手段が自転車に他ならない。一面の麦畑を、黒い制服の配達員が赤い自転車に乗って道を急ぐ。普段は静かな村に届けられる電報が何をもたらすのか、それは嬉しい知らせかもしれないし、不幸や一大事を伝えるのかもしれない。淡々とした描写だけに、何やら胸騒ぎがしてしまう。次なる展開やいかに?と映画のオープニングのようでもある。

と、拙い解説はこれくらいにしておこう。これはかつて確かにあった情景なのだろう。筆者も幼い頃に電報配達が自宅に来たことを思い出す。親は電報が来ると寿命が縮まると言っていた。だが、記憶が定かでないのは電報配達人が自転車に乗っていたことであり、その自転車が赤いことだ。玄関先で電報を受け取るだけなので、その背後に何があったのかまでは見ていないわけだ。

郵政博物館の研究ノート「自転車を用いた配達」によれば、1892年(明治25年)5月に電報配達に自転車を試用した記述があると言う。また、配達用自転車が赤く塗られた時期は未明ながら、1906年(明治39年)9月には正式に定められているそうだ。真っ赤に塗られたペニー・ファージング型自転車の絵も残っている。1903年生まれのみすゞが見た赤い自転車は、このような形だったのだろうか。

ちなみに電報は電気通信で伝えられた短文を配達するサービス。日本では1870(明治2)年に始まり、親族の危篤など緊急性の高い連絡に用いられた。電気通信は短時間で済むものの、その配達は徒歩よりも格段に速い自転車が活躍したわけだ。後には機動性が高いオートバイ(カブ)が主役になる。この変遷は当時の逓信省の流れを汲む日本郵便の元旦出発式でも伺え、自転車が赤いことも確認できる。


2021年元旦、日本郵便の年賀状配達出発式

さて、緊急時を含めて今日の連絡は電話やメールであり、電報に接する機会は少ない。ただ、電報を情報伝達ではなく実体移動と考えると、これもまたラスト・ワン・マイル課題に他ならない。特に都市部では自転車での宅配便を見かけることが増えてきた。渋滞する道路事情を考えれば、自転車が効率的だからだ。メッセンジャーもいればフード・デリバリーもある。現代の電報くばりの情景だ。

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