自転車と放蕩娘 (20) サイクリングばあさん

昨年末、自転車にまつわるエッセイ、小説、詩、漫画のアンソロジー『自転車に乗って アウトドアと文藝』(河出書房新社、2020年)が刊行された。前回の赤松正行の記事「金子みすゞの電報くばり」に登場する金子の詩も収録されている。

その中で私の目に留まったのは、群ようこの「サイクリングばあさん」だ。まず惹かれるのは軽妙なタイトルだが、登場するのは群の母親だ。67歳で、近所に買い物に行くために「前傾姿勢になって、プジョーのスポーツタイプの自転車に乗っていた」というのだ。エッセイの初出は『ヒヨコの蠅叩き』(2002年)なので、逆算すると1935年、昭和2ケタ最初生まれの女性と推測される。

ふと同じ年代生まれの私の祖母を思い浮かべると、自転車には乗らなかった。祖母は「子どもの頃、都会に住んでいて何でも歩ける範囲にあったから、乗り損ねた」と言い訳していたが、もしかしたらそれだけではなかったのかもしれない。このエッセイを読むと、「自転車に乗る用事がない」と考えていた女性がある時期まで意外といたらしいことに驚かされる。

群の子ども時代ですら、自転車は男の子の遊びについていくための乗り物だったというから、自転車は言うまでもなくお転婆の象徴だった。群と同世代の私の母が、やはり子ども時代、男の子用の自転車に乗った時の話を楽しげにしていたのも、してやったりという満足感に違いない(その時は聞き流していたのだが)。自転車は身近なようでいて一筋縄ではいかない、それであるが故に記憶に刻まれる乗り物なのだと今更ながら気づかされる。

改めて、「サイクリングばあさん」という呼び名に注目すると、これもまた娘から母親への一筋縄にはいかない感情が含まれていて心憎い。当時、都市伝説で「走るおばあさん(ターボばあちゃん)」という妖怪が流行ったのだそうで、それにかけて皮肉交じりに名づけたのがこの呼び名だという。とはいえ、どことなく畏敬の念も漂っているところに、母のお転婆を心配する娘の愛情表現が垣間見え、共感を誘うのだ。

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