自転車に「乗る」ためのレッスン 第19回 未完結の時間

前回実況したことを書いた。メディアは違うけれど、主観的には中継をしている。見ているという状況だ。それをある放送人は、かつて「未完結の時間」と言った。映画とちがって、いちど撮られ、場合によっては編集されている映像ではない(誰かしらこのあとどうなるのかを知っている)、テレビジョンによって実現された時間、空間、つまり状況。なにが起こるのか、どうなるのか、同時中継である以上、制作者も視聴者も誰もこの映像の行方をしらない。そんな状況が生まれたのは、20世紀半ばくらいのことだった。

その頃は、この未完結の時間を凌いでいくことができるたいぷの人間は少なかった。ある意味で、音楽や演劇のような場になれている人びと。音楽家や演劇人、その聴衆は、こうした経験を少なからずしていただろう。ただそれはひとつの場所での凌ぎといってよいだろう。これに対してテレビジョンに限らず、複数の場所をつなぎ、人々とコミュニケーションをとりつつ、過去の映像の再生も挿入したりしながら凌ぐとなると、これはまた異なる体験だ。目の前でおこったことをすこし巻き戻して何度も検証しながら、先へ先へとすすんでいくスポーツの実況もまた違うことだろう。

誤解の無いように言うと、その僕は実況したいのだ、という話では無くて、映像の時間について改めて考えたということが言いたいのだ。べつにどれも同じじゃないですか、という向きがあってもかまわない。他方で、こうした未完結の時間の登場が作り出す映像表現として、前述したように音楽や演劇、スポーツの時間があるだろう。フィルムのように長さを気にしないテレビジョンが作り出した映像表現は、未完結の時間そのものを表現にするような、長回しだ。究極的には、それが定点カメラにも繋がるだろう。

そんなことを考えていて、ふと思い出したのが、数年前に知って、僕はただのファンなのだが、ジェームス・ベニングという映像作家だ。初めて見た『ルール』(2009年)の作品だ。ベニングは、固定で長回しに風景を撮るのだが、この『ルール』の冒頭で、トンネルを撮影している。未完結の時間を説明するのはナンセンスなので、詳細は省くが、最初のチャプター10分ほどを、まずは見てください。沈黙の実況もありだな、と思う。

One comment

  1. 未完結の時間、興味深い指摘ですね。新型グループ・ライドでは単なる中継ではなく、実況者や参加者による映像の言語化が二重三重の構造を作っていますね。CCTV的な(でも念入りに編集されている?)ジェームス・ベニングの映像に惹き込まれつつも、これは重厚なカメラの存在を感じます。内容自体よりも「未完結の時間そのもの」だからかもしれません。何を見ているのか?ではなく何が見ているのか?が気になるのかも。良し悪しではないですが、モバイルなライブ・ストリーミングについて再度考えるきっかけになりました。ありがとうございます。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA