自転車に「乗る」ためのレッスン 第14回 インドアサイクリングする建築家

Michael Blackwoodが1990年に制作した『Arata Isozaki II: International Projects』の中で、30年前の建築家、磯崎新はどういうわけか三輪車に乗っている。2019年にプリツカー賞を受賞したことからも明らかだが、いまだ世界中の建築界に影響を持ち、様々な都市計画を実行している。

2020年2月15日、国立国際美術館に巡回した「インポッシブル・アーキテクチャー」展の関連イベントとして、磯崎新と浅田彰の対談が予告されていた。現在沖縄に在住する磯崎は、コロナの状況を鑑み、自邸からのSKYPE参加となった。近年中国での都市計画に関わっていて、特にパンデミックが発生している地域での仕事をしていることから、むしろ自分が媒介になってしまうことを心配していると、会場を和ませた(2月15日にはまだ和む余裕があったように思う)。

磯崎のプレゼンテーションは、「パンデミック都市」という切り口だった。特に示唆に富んでいたのは、カミユ『ペスト』、トーマス・マン『ヴェニスに死す』、大友克洋『AKIRA』に見る、都市が伝染病に覆われることによって共存する状況についてだった。磯崎の根源的な思想に引き寄せれば、「未来都市は廃墟である」という彼自身のコンセプトにも接続する話であった。カミュのオラン(アルジェリア)、マンのヴェニス(イタリア)、大友のネオ東京(日本)……。オランは完全に封鎖されているし、ヴェニスでは観光都市として病気をひた隠しにしている。ネオ東京は、新興宗教が勃興し、治安は乱れている。これを受けて浅田は、2025年に予定されている「いのち輝く未来社会のデザイン」を掲げる大阪万博が、ウイルスとの闘争を引き受けるだとか、免疫無しで生きられる社会などをテーマにしていくべきだろうと述べた。

このプレゼンテーションからほどなくして、世界の主要都市は「パンデミック都市」として封鎖されつつあり、それは長く続くだろう。少なくとも都市の「コロナ疲れ」は「コロナ慣れ」へと移行しながら、何度となく感染の大小波に脅かされながら生活が続くことは、100年前のスペイン風邪を振り返れば想像に難くない。すでに国家のみならず企業レベルの経済の破綻が見えつつあり、それはもはや対処の術はないだろう。

僕も以前住んだ新宿界隈、夜間の業種に感染が発生しているという。首長が、感染拡大を防ぐことを目的に、業種を名指しで指摘する。この業種の補償、もしくは助成がないのだとしたら、これは水際作戦ではなく、切り捨てに他ならない。個人を補償することが、都市機能を存続することに通じる。

磯崎が「新都庁コンペ案」(1986年)に書いたように、なんらかの「やみくろ」(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に基づく)が都市を司っていることを忘れてはならない。

話が逸れた。現状、とにかく家にいることが推奨されているわけだが、メンタルをケアすることはあまりに困難で、正直なところ、寝るしかない気がする。僕のようなタイプは、ただただ映画でも見ていればそれでよいのかもしれないが、誰もがそうもしてられない。人間も政治も経済も文化も変貌せざるを得ないだろう。それを意識して体力を温存すること。欧米ではその手段のひとつとして、インドアサイクリングも推奨されているようだ。

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