自転車に「乗る」ためのレッスン 第13回 見えない自転車

アルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』(2013年)は、斬新な演出や撮影手法に基づく物語として、未だにときどきみてしまう。もちろん、この数年の映像技術の進展に馴らされた知覚にとっては、その細部へ驚きは減じているというか、おそらくその点ではあっというまに古色蒼然たるものへと再配置されていく予感もしている。他方で、最初から技術的な陳腐化が想定されているような気がするのは、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968年)の宇宙ステーションなどに見られる、無重力を表象する円運動へのオマージュにある気がする。そんなに仰々しく言うまでもなく、宇宙を舞台にしてきた映画のなかにいくらでも類似のシーンはあるだろうけど。

『ゼロ・グラビティ』で注目したいのは、サンドラ・ブロックが演じるライアン・ストーンが酸欠になりながら、九死に一生を得るシーンだ。宇宙服を脱ぎ捨て、拘束から解放され、身体の自由を確認するシーンだ。映画前半、次から次へと降りかかる災難の受動から、帰還する能動へと生まれ変わるシーンだ。子宮の中の胎児のような画になって、というところは私見では幼稚な印象をうけるのだが、リ・バース=再生を象徴するというコンセプトを説明するとこうなるようだ。

いずれにしても、サンドラ・ブロックの身体が、手足を垂直から水平へと伸ばしながら足を抱え込むような姿勢へと展開する。無重力空間で、すこし痙攣的に実感される生が表象されているように感じられる。もっともリアリティではなく、コンセプチュアルな解読を要請されていることから、どのように制作されたのかが気になる。すると案の定、メイキングがあった次第で、それを見て、驚いたというか、なるほど、と思った。

エアロバイクのような車輪のないサドルに座ったサンドラ・ブロックが、手足に表情をつくりながら撮影が行われている。加えてカメラを回転させ、そこに画像処理がされているはずだ。画像処理に議論が向かいがちだが、技術が陳腐化してきたことによって、改めて演技の肌理を演出した、装置しての自転車が改めて浮上してきたような気がする。サドルの安定が導き出す運動の優美さ、回転運動の摩訶不思議なことを考えずにはおれない。

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