自転車と放蕩娘 (7) サイクリングがもたらす公共圏

私にとってクリティカル・サイクリングは、サイクリングを共通言語に、ユーザーの視点から新たな表現者像を考えるための起点となっている。サイクリングを通じて感じ、考え、つくり、批評し、提案し、楽しみを享受する点では皆等しくユーザーであるが、サイクリングへのアプローチそのものが単なる消費を超え、個人の態度を表明し、次の表現を生み出す可能性がある。とりわけ、サイクリングとメディア技術の関係は、サイクリングの意味を相対化する問いを秘めているように思う。

今月初めに開催した、岐阜おおがきビエンナーレ2019で「メディア技術がもたらす公共圏」を掲げたのも、メディア技術によって、つくり手と受け手の関係がどのように変化しうるのかを考えたいという意図があった。

たとえば、スマートフォンが普及したのは2007年以降であるが、ユーザーの拡大に伴い最も変化したのはインターネットの「使われ方」だったのではないだろうか。かつて、美術批評家の東野芳明は「文化の主体は、作り手ではなくて、受け手なのだ」【1】と主張した。この言葉を現在に引き継ぐならば、ユーザーの能動的な関わり方を含め制作環境を問うことこそが、メディア表現を批評的にとらえる契機になると考えたのだ。ディスカッションから生まれる場を公共圏とみなし、連続シンポジウムと関連展示を企画した。

今回のシンポジウムで、サイクリングを直接のテーマとすることはなかったが、パネリストの門林岳史が紹介した漫画『ゆるキャン△』1巻の冒頭には少しだけ自転車が登場する。主人公は、冬にひとりでキャンプに出かけるのが趣味という女子高生。話の中心はもちろん、キャンプである。物語は、スマートフォンを片手に1泊分の荷物を自転車に積んだ彼女がキャンプ場に向かうシーンから始まる。自転車はさしずめ、女子高生がひとりで出かける際の気軽な移動手段という位置づけだろう。

『ゆるキャン△』第1巻表紙

門林が注目したのは、漫画のコマに描かれる風景だ。興味深いのは、『ゆるキャン△』7巻に、 360度カメラRICOH THETA のレンズ越しの風景が描かれている点だ。作者は、取材にもとづきパノラマ写真風の背景を配置することで、シーンの展開に説得力を持たせている。手つかずの自然を楽しむのではなく、むしろ日常の延長上にある写真を使ったコミュニケーションに媒介されたキャンプ活動を、読者自身自明なものとして受け入れていることに気づかされる(詳しくはシンポジウムの記録映像(1:25:30〜)を確認してほしい)。

シンポジウム「メディア技術がもたらす公共圏」(2019年12月8日)

キャンプに限らずサイクリングの楽しみ方も、メディア技術に媒介されている。電動アシスト自転車だけでなく、バイクシェアサービスやルート共有アプリ、センシング機器や撮影機器など、枚挙に暇がない。今年は新たに輪行を始めたので、来年はメディア技術の取り入れ方をテーマに加えてみようかしらと検討中。来年も引き続き、連載にお付き合いいただけたらうれしい。

  • 【1】「日記から― 堂々たる受け手」『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』 (現代企画室、1980 年) *初出は 1980 年 3 月 27 日朝日新聞夕刊

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