自転車に「乗る」ためのレッスン 第7回 舞台の地形と物語の地勢

僕がいま研究代表をしている「マス・メディアの中の芸術家像」という日文研でのプロジェクトは、研究対象の時代区分を1968年から95年と限定している。この設定はテレビというオールド・メディアの成熟期から、インターネットに象徴されるニュー・メディアの登場までの時期を指している。もっとも2019年においてインターネットは「ニュー」ではない。しかし「オールド」でも無いはずだ。ちなみに95年は、その都市の前半に続いた阪神淡路大震災、オウム真理教事件が現代史の大きな節目となったことは言うまでも無い。

映画に登場する自転車として、研究会のからみで最近思い出したのが、1989年のベルリンの壁崩壊、冷戦の終結を想像力に、利重剛が監督した映画『BeRLiN』(1995年)だ。フィルムとヴィデオのテクスチャー、カラーと白黒、映画とテレビ、ドラマとドキュメンタリーといった対立する規範を解体しながら展開する物語。そしてタイトルはベルリンだが、舞台は東京という、ある意味では破れ目のたくさんある映画だったが、時代の空気感を掴んでいた(と思う)。

物語の詳細は省くが、なにはともあれ自転車のシーン。

中谷美紀が扮する「キョーコ(仮名)」が、自転車でホテルに乗り付ける。向かいの焼き肉屋から、ダンカン扮するサラリーマンのオガタがこれを見初める。オガタはホテルの前で同僚と待ち伏せし、再び自転車に乗るキョウコを追う。最初の数カットは、道玄坂周辺の下り坂。そして切り替わった場面はこの辺りでは無いのだが、下り坂を降りきった十字路を通過し、上り坂の中腹、すこし減速したあたりで追いつく。話しかけるオガタに答え、キョウコは「よかったね」、「がんばってね」と言い残し、立ちこぎで走り始めるのだった。

実は、オガタはこのときたった一度だけキョウコを見かけ、追いかけ、話しかけたことがきっかけで、彼女の行方を追うことになる。そしてこのシーンにおける、走る、追う、追われる、追いつく、走り去るという運動を通じて、東京という舞台の実際にも比喩としても地形が、自転車によって強調され、この時空の中へとキョウコが走り去ることが予告されていたともいえる。それは深読みに過ぎるかも知れないが……。

ちなみにキョーコが乗る自転車は、僕もこの時期に乗っていた、いわゆるカマキリハンドルの自転車だ。ブリヂストンが80年代に発売して一世風靡した(と思う)デザインのそれ。この自転車、あまり速度が出せない印象があり、キョウコの台詞ではないが、むしろ乗ってる人に「がんばってね」と言いたくなる(笑)。

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