自転車に「乗る」ためのレッスン 第6回 止まる自転車

黒沢清の映画『勝手にしやがれ』シリーズの続編の続編に位置づけられる『蛇の道』(1998年)も相変わらず哀川翔が主役だ。シリーズと書いたが、すこしだけ設定が似ていて、哀川が主役であるということしか共通点はない。もっとも「しか」とは言っても、主役が同じ役者というだけで、充分シリーズではあるだろう。以前、黒沢映画について書いたときにも本作について言及し、哀川が自転車に乗り慣れてないということを推測した。今回は止まる自転車である。

物語の紹介はあまり必要ないと思うのだが、主人公である哀川は、復讐の請負人をしているいっぽうで、カルトな感じの、謎な数学塾の教師をしている。もともとこの役の裏側というか、どのような人物設定なのかは、真面目に考えるだけナンセンスな気がする。自転車に乗り慣れない役者が演じているところに設定を帰着するつもりは毛頭ない。そういう意味では、人物設定を考える上で、とても印象的なシーンがやはり自転車がらみなのだ。謎な数学塾を終え、生徒(といってもほとんどが社会人)を見送り、ひとり自転車に乗り、商店街を走り始め、左足を地面に着けた刹那、自転車を止めた後ろ姿が顔だけ少し振り返る。振り返った眼差しの先に、無人で闇の商店街が続く。移動する自転車ではないのだが、わざわざ自転車に跨がって振り返るというシーンは印象深い。

走るシーンばかりこれまで考えてきたけれど、この停止するシーン、そして振り返るというのはとても珍しい気がする。もっとも左側を走りながら、右側に振り返り、後方確認するというのが、本来ではあるはずだが、ここでは逆だ。このエッセイを書くのに自転車のために映画を見るようになって半年経つが、後方確認を人物設定というか、なんらかの感情表現にしているのは珍しい。車線を変更するためでもないし、振り返って、無人の暗い商店街がまっすぐ見えるだけ。無論これが、タイトルの示す「蛇の道」を暗示するのかもしれないけれど。ママチャリにしか乗らない自分の経験、いやこのシーンで哀川もママチャリなのだが、自分の経験からすれば、やはりなにか気配を感じたということ意味するのだろう。このシーン、自転車で走り始めたところでは、観客に気配を感じさせるようには作られていない。振り返って、無人の道のカットではじめて、気配を感じたことを理解させている。

黒沢の作風として考えれば、なにかホラー映画的な要素として、気配を促す。あるいは気配を察する人物であることを示しているシーンなのだろう。映像のなかでは、走る自転車の自由さ、自然さにくらべ、停止する自転車と後方確認は、なんとなく不穏な空気感を作り出してしまうのだろうか?

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