自転車と放蕩娘 (1) 序幕編

「女性と自転車という切り口で、連載してみないか」という誘いに、二つ返事で応じたのには理由がある。ロードバイクで長距離を走るようになり、ずっと不思議に思っていた感覚を言葉にしてみたい衝動にかられたからだ。

ソウル・漢江サイクリングロードでのライド(手前は筆者)

数人のグループで同じ道を走りながらも、個人の時間を楽しむような感覚は、大げさかもしれないが、共同体の理想を思わせる。体力差では女性に不利な上り坂も案外、ギアチェンジが助けてくれる。引け目を感じずに、自分の勘と力を頼りに走りを楽しめるのだ。

しかも、普段はとらない前傾姿勢はなんだか野生じみているし、追い風に乗って疾走する感覚は、まるで馬に乗っているかのような自由さを感じさせる。断っておくと、私は自転車に限らず、移動すること自体が好きだ。だが、長距離ライドにはなぜか、見るものの解像度を上げるような刺激があり、日々の思考を促す。この絶妙な感覚を頼りに、女性自身が女性について語ることを引き受けてみようと思い立った。

もうひとつ、女性について語ろうとする時、私の頭から離れないのは、外山紀久子のポストモダン・ダンス論『帰宅しない放蕩娘』だ。帯には「モダニズムの〈純血主義〉から〈カオスの耐性〉の時代へ 父祖伝来の財産を蕩尽してなお帰宅しない漂流者 二十世紀芸術の物語の解体を現代舞踏を軸に辿る」と書かれている。文字通り移動を旨としながら、いつもこの漂流者=放蕩娘が頭をよぎる。

外山紀久子『帰宅しない放蕩娘 アメリカ舞踏におけるモダニズム・ポストモダニズム』(勁草書房、1999年)

ひろく20世紀芸術の価値体系の変化を目の当たりにする時、そこにいくつかの基本原理を読み取ることができる。芸術のための芸術、すなわち「純化」「自律化」、あるいは「反芸術」としての傾向 —これらは同根でモダニズムの原理だ。そして、ポストモダニズムの原理が「脱構築」であり、その舞台に登場するのが、放蕩娘なのだ。反抗すべき伝統へ回帰するモデル(=放蕩息子)とは別の「最初から故郷に —父祖伝来の堅牢な屋敷に— 居場所をもたず、帰宅することもない」時代のモデルとしての、放蕩娘。歴史的なジェンダー区分を参照しているものの、この役割は必ずしも女性に限った話ではない。

私がポストモダン的感性に惹かれるのは、起源や故郷や伝統から根こぎになっているという自己認識のなかに、喪失と解放の両方のモメントが含まれている点だ。この認識に立ち戻るためにひたすら、自転車に乗っているような気がしなくもない。

自転車に初めて乗り、自らの世界観を変えようとした女性たちがいる。トップページにも挙げたポスター内の女性がそのひとりだ(詳しくは、次回)。今後、さまざまな切り口から、自転車と女性をめぐる連載を開始しようと思うので、お付き合いいただけたらうれしい。

Ride a Stearn and Be Content, 1896
Edward Penfield, (American, 1866–1925) Prints, Posters
Metropolitan Museum of Art

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