自転車に「乗る」ためのレッスン 予告編

メディア・アーティストの藤幡正樹は、自転車の乗り方をテキスト化することの困難さを、あるエッセイに書いている。一瞬「そうかな?」と思わなくも無い。実際、「ハンドルを握り、サドルに座り,ペダルを漕ぐと自転車は動きます」と書けるではないか。しかし、しかしである、人間が人工物と文字通り身体のバランスをもって一体化する部分について、書けていないのではないか? これは自転車について語る上で致命的なことだ。そもそもで言えば、自転車の乗り方以前に、歩き方について記述できないことにも係わるだろう。手掛かりとしていうならば、「歩く」ことは、中枢神経系から脊髄への様々な反射的な機能が意識、無意識のレベルで保たれるバランスによって生成される運動なのだが、やはりその核心であるところのバランスの記述に到達しない。逆にいえばそれが、「乗る」とか「歩く」という動詞のマジカルなところだ。

こうした動詞について考えることは、僕にとって、映像を考えることに他ならないように思われる。もちろん、自分自信が行為することで分かることもあるだろうけれど、客体化され、メディア越しに心地よくみえるバランスが、こうした動詞を記述することに繋がる気がするのだ。その言葉自体でしか記述できない言葉の意味を説明することへの探求。

映像を通じてよく見かける、その言葉自体でしか記述できない動作といえば、ダンスやスポーツ、音楽の演奏にも共通するかもしれない。他方でダンスやスポーツ、音楽する身体は、僕自身とかけ離れた、超越的な身体性だ。僕に模倣すらできない、鍛錬に基づく身体運動をみたとき、それはもちろん自身の身体の拡張を意識させられる感動があるわけで、つまりその細部を追体験することよりも、自身とマッチングできないような差異を言語化するチャンスを提供してくれる。とはいえ、僕がいま興味を持つ、自転車に「乗る」映像の快楽は、もうすこし身近な距離にあり、自分事としてマッチングできる心地よさや、意味を考えてみたいのだ。

例えば、アンヌ・フォンテーヌ『おとぼけオーギュスタン』(1995年)は、名画ではないが、タイトル通りすこし惚けた主人公、オーギュスタンの物語。冒頭から普通の生活者であることを強調する演出として、パリの街を、背筋をピンと伸ばして自転車に乗るシーンが清々しい。そして喋り始めたりすると、あっという間に変わり者になる。こういう言い方は適切ではないが、誰でも一見普通の人なのに、実は、ということなのだが、逆に言うと、普通であること、あるいは自然体であることの強調として、自転車が持ち出される。「誰でも」乗れるということの強調だ。ある意味で、実は社会不適応者であるオーギュスタンのサイクリングがなんと快適に見えることか。他者とコミュニケーションをとらずに、一人でいれば、バランスもとれているのに・・・ということか。

こんな感じで、ぼんやりと映画で自転車に「乗る」レッスンをしてみたいという趣向である。今回は予告編なので、気になるいくつかの映画を羅列しておこうと思う。ゴダール『勝手に逃げろ/人生』(1979年)、ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987年)、北野武『3-4X10月』(1990年)、マルズィエ・メシュキニ『私が女になった日』(2002年)、ハイファ・アル=マンスール『少女は自転車にのって』(2012年)等々。

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