志賀直哉の自転車

小説の神様、志賀直哉は「自転車」なる随筆を残している。「十三の時から五六年の間、ほとんど自転車気違いといってもいいほどによく自転車を乗り廻していた」頃の出来事だ。志賀直哉は1883年生まれなので、自転車に乗り始めた13歳は1895年(明治28年、数え年で算定)頃だ。夏目漱石がロンドンで自転車に乗れと言われた1902年(明治35年)や、萩原朔太郎が貸自転車屋に行った1921年(大正10年)よりも随分と早い。

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彼らが悪戦苦闘したのに対して、志賀直哉には苦労話が一切ない。自転車に初めて乗った顛末は書かれていないが、すぐに乗りこなしたに違いない。なにしろ、中年の二人に対して、こちらは中学生になったばかり。体重も軽ければ、身もしなやか。アクロバッティックな姿勢で自転車に乗る写真が残されている。しかも、老齢になってからもサーカスまがいの曲芸を披露している。相当優れた運動神経の持ち主であったようだ。

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さて、「自転車気違い(原文ママ)」であった20歳前までは「学校の往復は素より、友達を尋ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった」と言う。自動車は存在せず、鉄道も新橋までで、移動は徒歩、馬車、人力車などが中心。自転車は極めて限られた人だけが乗っていた。そんな時代のフリークぶりが描かれる「自転車」前半を抜粋しよう。もちろん、抜粋だけでなく、本文にもあたって欲しい。

教師がだるま型自転車で、急な九段下の坂を降った噂に感心した。
赤坂の三分坂や霊南坂を登ったが、江戸見坂は登れなかった。
難所であった小石川の切支丹坂を降ることに成功した。
中等科進級時に祖父からデイトン社製の蝦茶色の自転車を買い与えられた。
大人用の自転車で足が届かず、当初は下駄のような補助具をペダルに取り付けた。
双輪倶楽部という会に同行して、十数台で千葉まで遠乗りをした。
横浜までの往復は何度もして、遠乗りとは思っていなかった。
横浜の商館に新しい自転車が入荷すると、必ず見学に行った。
横浜では本屋や雑貨屋にも行った。銀座より洒落ていた。
食事は公園近くの西洋料理屋に行き、その後は急いで帰った。
川崎近くで子供に出くわし、飛び降りたが、惰性で突き倒した。
子供を突き倒したことで騒動になったが、年上の仲間に助けられた。
蒲田の梅屋敷で休憩し、梅の香りを楽しんだ。
自転車に乗った人に出会うと、引き返して無言で競争を挑んだ。
競争に飽きると、曲乗りに興味を持つようになった。
前輪を高く上げ、後輪だけで走る曲乗りに熱中した。
曲乗りをするために、前の歯車を少なく、後ろの歯車を多くした。
歯車を変えて機敏な動きができるようになったが、高速走行は難しくなった。
上野で二人連れに競争を挑まれたが、ギア比を変えた自転車では競争に負ける。
二人連れの一人を横倒しにして、細く曲がりくねった道に入って必死に逃げた。

自宅があった芝公園または麻布三河台から、横浜の居留地までは片道30〜40km。朝出かけて山下公園近くでショップ巡り、ランチをして帰路に着く。いかにも今日でもありそうな話だ。だが、当時の自転車の性能は低く、道路は舗装されていなかったので、この距離を一日で往復するのは相当な脚力だったと思われる。もっとも、今日のように渋滞し危険な自動車に悩まされないので、気楽で楽しいツーリングだったのかもしれない。

東京の坂の多さはノン坂バカとしては閉口するが、志賀直哉が登れなかった江戸見坂は勾配20%と言う。短い距離ながら、下から見ると壁のような激坂。上から見ると転がり落ちそうな気分になる。車体が重く、変速がない当時の自転車はもちろん、軟弱者としては軽量なヒルクライム用自転車でも登れる気がしない。あるいは三分坂霊南坂切支丹坂はどうだろうか、坂好きな人は是非ともアタックして欲しい。

また、ウィリー走行のために前後スプロケットの歯数を変えて、ペダリングを軽くしている。これは上り坂や曲乗りには有利だが、高速走行には向かない。とは言え、競争をけしかけれた相手を横倒しにして逃げるのは理解できない。負けん気が強いのか、まるで明治時代の人力暴走族だ。ならば、現代のトライアル世界チャンピオンVittorio Brumotti氏の優美なビデオを挙げておこう。志賀直哉が見れば、悔しがること間違いない。


Brumotti from Jim Burt on Vimeo.

「自転車」の後半は自転車を買い替えた時の悔恨話。新しい自転車を買うために、乗っていた自転車を下取りに出して代金を受け取る。だが、その帰り道、別の店で気に入った自転車を買ってしまう。これを何とも思っていなかったが、後にペテンと言われているのを耳にして、最初の店主の期待を裏切ったと悔やむわけだ。新車購入を前提に下取り価格を高くして損をさせたと危惧し、謝りに行って相当する金額を握らせる。

立派な行為のようだが、そもそもが直情的な行動の結果だ。自転車の下取り代金が50円、新車の購入代金が90円を足して140円、謝って渡した金が5円。「十円あれば一人一ヶ月の生活費になった時代」だ。今日の生活費を10万円とすると、自転車の代金は140万円、その倍だとすると280万円に相当する。軽自動車か小型自動車並の値段であり、普通の中高生に与えるような代物ではない。人力暴走族は金持ちの餓鬼でもあった。

ところで、この随筆の冒頭には「私は今、六十九歳で」とある。つまり、老齢になってから、十代の若かりし頃のエピソードを綴っているわけだ。20代後半に処女作を発表して以来、常に第一線の作家として活躍した志賀直哉。しかし、この間に自転車に関する作品は書いていない。小説の神様にとって、かつて「気違い」なまでに熱中した自転車とは、何であったのか? 小説と自転車の、あまりにも極端なすれ違いが気になる。

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